粟神社 (城陽市市辺大谷)
山城国綴喜郡
京都府城陽市市辺大谷68
(1台分の駐車スペースが新設されました)
■延喜式神名帳
粟神社の比定社
■祭神
少彦名命
「木津川」の支流「青谷川」沿い、城陽市市辺大谷に鎮座する社。「市辺」は雄略天皇に殺された、市辺押磐皇子(イチノベノオシハノミコ)が一時期住したことによる地名であるとも。
◎「粟神社記」には、第6代孝安天皇の御代に「平間山」麓の「百舌ヶ原」に少名彦名尊と高御産霊神が、一柱は椎の木に、一柱は榊の木に降臨し、乙足彦連という人物に「我を祀れ」と夢のお告げがあったので、探してみると椎の木の下に粟の穂が、榊の木の下には稲穂が生えていたので、そこに社殿を建てて祀ったとのこと。また元は東方800mほど、「青谷川の」上流の「松尾」というところに鎮座していたと伝わります。そして少彦名尊は当社に、高御産霊神は旦椋神社にて祀られたとも。
◎「平間山」麓の「百舌ヶ原」は詳細地不明。「松尾」という地は東方2kmほどに有り、「椎尾の滝」といった名勝も見られ、その辺りを指すのでしょうか。また別伝として東方500~600mほどの松尾の「鎮座屋敷」にあったとも。孝安天皇の御代というのは古く遡らせただけのものと思われます。
◎一方で当社を粟直氏が奉斎した社とし、その祖神を祀ったとするのは「神社覈録」。粟直は粟国造家であり、阿波国の北部にあたります。「先代旧事本紀」国造本紀には、高御産霊神の九世孫 千波足尼が初代国造になったとあります。続記には宝亀七年(776年)に粟直姓を賜ったとの記載有り。少彦名尊は高御産霊神の子とされているため、当社古記録は一応整合性が取れているとみなせます。一族が当地にも拠点を構えたということになるでしょうか。
この粟直氏は奈良時代末期には飛騨国造を輩出しています。また和泉国の大津神社を奉斎したとして知られます。ただし当地に於いては他に資料がなく、根拠は欠いています。
◎現社地への遷座は中古の「青谷川」の洪水によるものと伝わっています。近世には「粟明神」などと称されていたようです。
式内比定社とは程遠い寂れ具合に規模の小ささ。現在はすぐ近くに幹線道路が通り、境内もかなり整備されました。
*写真は2018年2月と2025年3月撮影のものとが混在しています。
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