「今を生きる事が未来をより良い方向に導く」
 
昔、そんな言葉を聞いた記憶がある。
母親から送られてきた本だったか忘れたが。。
 
その言葉を聞いた頃は、
言葉の通り、今を生きる、今目の前の事に必死に取り組む事が正しいのだと認識した。
 
というか、この言葉自体、
私が仕事で嫌で辞めようと悩んでいた頃に言われたような記憶がある。
 
 
今を精一杯生きれば未来は開けるのだ、と。
そう勘違いしていた。
 
母親がどういうニュアンスでこの言葉を私に送ったのかは何となくわかる。
しかし、それは単に偉人の本に書いてあった言葉だったかもしれない。
 
となると、そもそもの偉人のニュアンスはどうだったのだろう。
 
 
今となって私が思うのは、
今を生きるというのは、今感じられる感情を味わい尽くす事だと思う。
 
今の世の中とても忙しなく、
日々の作業に追われ、
一つ一つの現象に対する自分の感情を味わう余裕がない。
 
自分もそうだが、
ふと気がつくと無感情になり、頭で行動をしている。
 
もはや無感情。
故に、歳を取るに連れて、心に残る事が少なくなっていたように感じる。
 
これからの人生は心に残る時間を刻んでいく、と決めた。
 
決めたからには毎日を心の眼で見て、心の記憶に収める。
出会った人の心に対しても、何かしら「私」を残せるようにする。
 
自らの心、他者の心に一つでも多くの「私」を刻んでいく。
それが人生を全うする事。今を生きる事に繋がる。
 
僕らは、思った以上に人生は短い。
そして、思った以上に社会の流れは速く、流されている事さえ気づかない。
 
何故に僕らは生きていくのだろう。
そして、何を目的として生きていくのだろう。
 
 
僕は一人でも多くの人と共感できる人生を目的として、
娘に対してもそれを体感して欲しいと願っている。
 
そして、そのためには自分の気持ちに素直になる事が最優先だ。
自らを偽った人間には誰も本音を語らない。

今日、私は家族とダイニングテーブルで3人で座り、家族の在り方について話し合った。

結果から言うと、めちゃくちゃ幸せな時間で、涙を流すほど幸せだった。

 

家族と話し合い、幸せで泣けるなんて、これほどまでの幸せはあるだろうか。

 

一番身近な人と言葉を交わし、在り方や過ごし方を共感し、共有できる。

人生において、一人でも多くの人と共感したいと思っている私にとってはこの上ない幸せな時間だった。

 

感謝のあまりに奥さんに感謝の言葉を伝えたくなった・・・が、その瞬間涙が止まらなかった。

 

 

 

ことの始まりは、昨日行った大学時代の友人宅での、子育てについての話だ。

 

その友人夫婦も最近子供ができたばかりで、私の娘と同学年の子だ。

 

その中で、テレビを見せる事に対するリスクを教えてもらった。

奥さんはその後、テレビを見せていた事を後悔していたり、これからどうすればいいのかを悩んでいたそうだ。

 

その事に対して、今朝、相談を受けた。

 

「昨日のテレビの話覚えてる?けいちゃんはどう育てていきたいとかあるの?」

 

 

改めて聞かれた言葉に私は一瞬間があった。

 

と言うのは、こう育って欲しいという思いはあるものの、明確に娘にどう育って欲しいという教

育方針がない自分と、その思いさえも夫婦間で共有できていなかったためだ。

 

同じ家族で住んでいて、大切だと思っている娘に対して、どう育って欲しいという事を漠然と過ごしていた。

 

そこから私達夫婦は、娘を隣に座らせ、真剣な話を始めた。

 

「僕は、娘には自分の心で感じる事を大切にしていって欲しい。だから、テレビがどうとかはあまり関係なくて、この子の感情が芽生えるさせるように育てていきたい」

 

テレビを見せる見せないというのは、あくまで方法論であって、自分の想いは「感情を育ててあげたい」というものだ、という事を伝えた。

 

奥さんは始め、明確な想いはなかったと正直に教えてくれた。

しかし、僕が思うに彼女は、想いがなかったのではなく、想いを言葉にできなかっただけだと思った。

 

想いがなければ、娘に対してこれまでの子育てはできなかったはず。

単に、想いを言語化して可視化する事ができていなかっただけの事。

 

代わりに僕がこの時に明確に言葉にしたことで、奥さんもそこは共感してくれた。

 

 

多くの家族が、夫婦間で教育方針がずれていたり、どちらかが放棄していたりすることは往々にしてある事だ。

 

そんな中、僕ら夫婦は、最も根底で、最も大切である価値観を共有できた。

 

これだけでもめちゃくちゃ幸せな事だ。

 

 

想いが合致し、僕ら家族の方針が決まった。

 

その上で、僕ら夫婦は、テレビを見せる見せないは問題ではない、感情を芽生えさすためには何をすればいいのだろう、色んな人と会わせることもいいのか、など「方法」を模索し始めた。

 

僕からすれば、今日を境に奥さんの中の子育て方法も変わると思っている。

ベクトルが決まりさえすれば、無意識の行動は勝手に変わるからだ。

 

そして、そのベクトルは僕ら夫婦で共有したものだ。

信頼できない訳がない。

 

僕は本当にこの人と結婚してよかったと思った。

そう思っていると、もう一つ娘に対する想いが湧いてきた。

 

「この子には、パパママにめちゃくちゃ愛されて育てられたんだという自信を持って育って欲しい」という想いだった。

 

これも奥さんと合致した。

 

すると、その途端、奥さんにある言葉を伝えたくなった。

しかし、その瞬間から涙が止まらない。

 

娘が生まれて10ヶ月間、奥さんの娘に対する愛情は言葉では例えきれないほど感じてきた。

母になった彼女は強く、そして優しくなった。

 

僕は思い切って言葉にして伝えようとした。

すぐに彼女にはバレた。

 

「泣いてんの?え?え?(笑)」

そりゃそうだ。さっきまで普通に話していたのだから(笑)

 

僕は照れ隠しの為に、娘を抱きかかえながら、涙を流し、彼女にこう伝えた。

 

「この子が愛されてるっていう自信をつけてあげたいって言ったけど、あなたのこの子に対する接し方や子育てを見てたら、大丈夫っていう確信が本当にある。だから、本当にあなたと結婚して良かったって思う。ありがとう。」

 

大の大人が朝から涙を流しながら、奥さんに感謝の気持ちを伝える。

変な感じだが、この上ない幸せな1日だ。

 

僕ら夫婦、それを見ていた娘の心には、今日という日は忘れても、この共感して感動した心の感じは一生忘れないものだと思う。

 

心で記憶された瞬間だった。

 

 

人生は、こういう心で記憶できる幸せをどれだけ経験できるかだと思う。

それが人の器を自然と広げるものだと思う。

 

僕ら夫婦が娘の手本になり、心で感じ、言葉として伝え、目の前の人と想いを共感する事。

そして、誰よりも私は愛されて育ってきたんだ、という自信を胸に娘には生きて言って欲しい。

 

その為に、僕らは毎日娘に「愛している」と言葉で伝え、どう感じているのかを素直に言葉で伝える事が必要だ。

 

何かをするということが先ではなく、どういう想いがあってこそ何をするかだ。

 

その為には、まず自分の感情に気づき、その感情に真っ直ぐ向き合える自分でいる事だ。

 

 

僕ら人間にしかできない事。

それは目に見えないことを目に見えない心で感じて見て、また言葉として誰かと共有する事だ。


 

 

人の抱く思いは、人それぞれある。

しかし、一人一人の価値観=思いは一つしかない。

 

時に写りかわるものであるが、基本的にはその時々においては一つしかない。

 

 

例えば仕事をしていて、誰かに何かを頼みたいという想いがある時。

伝え方は、何通りもある。

 

メモとして渡す方法。

動作として手招きで呼ぶ方法。

言葉として伝える方法。

頼みたいことだけを渡す方法。

 

ものは使いようとあるが、どんな方法を使うかは自分次第。

その人の人間力がものをいう。

 

その為には、自分の想いを明確にした上で、相手の想いを考えて伝える必要がある。

 

どんな想いも、相手に伝えなければ伝わらない。

言葉にすると当たり前だが、伝えるというのは心に届ける事だ。

 

行動しなくても伝わっているというのは勘違い。

言葉にして伝えたから伝わっているというのも勘違い。

入念に作った資料を渡して説明したから伝わっているというのも勘違い。

 

僕ら人間の想いというのは、人それぞれで、出てくる表現方法に付随する感じ方も人それぞれだ。

 

例えば、「リンゴ」という単語を聞いた時に、全く同じリンゴを想像できる人はいない。

 

それは、リンゴに付随する情報、感じ方は、その人によって全く異なるからだ。

 

私のリンゴに対する情報は、青と赤、青森産、外国産、農薬でテカテカ、あまり好きじゃない、滅多に食べない・・・などがある。

 

これを読んでいるあなたは全て合致しただろうか。

 

するはずがない。

私の中でさえ、リンゴという単語だけでは青と赤という二択で迷っているのだから。

 

こういう事が自分と他人との間では起こっているという事を前提に考える必要がある。

 

想いというのは、その人の価値観、その価値観を得るまでに体験してきた事、体験した上で感じてきた事から成り立っている。

 

合致するわけがない=簡単に伝わるはずがない。

故に、伝わるまで伝える必要がある。

 

一番簡単な方法は、言葉として伝える事だ。

 

言葉として伝えることはとても重要。

しかし、安易には伝わらないという事は知っておいた方がいい。

 

その上で、自分の想いをどう伝えるか。

人として生きていく上で永遠に追求し続ける課題だと、私は思う。


 

人は生きていく中で、何かしらの価値観を自分の中で確立する。

絶対に。

 

特に社会的に地位のある人、責任のある人は悩んだり苦しんだ上で、そういう価値観を手に入れることが多い。

 

そして、その価値観は、どれだけ世界を広く見れているかによっても変わってくる。

 

個人としての視野だけの場合、自分の幸福の為、自分の生活の為という根幹が故に、考えている価値観というのも視野が狭いものとなる。

 

しかし、仕事をしていく上で、見えなかった人、知らなかった人、視野が広い人と出会っていくと、それまでの自分の視野が一気に広がり、世界が広がる。

 

そして、そうした時に、その人達のことを「感じられる」人は、大きく価値観というものが広がる。

 

では、どうすれば「感じる」ことができるのか。

 

筆者の経験からすると、「リアルな現場に行くこと」に尽きると思う。

 

いくら人は想像をしても想像力に限界はある。

そして、現実は時として想像と違うことが往々にしてあるからだ。

 

そんな予測不可能な事を想像した所で、感じられるものは虚像でしかない。

 

 

そして、人は自分の見たい世界だけを見る。

それは人は幸福になりたいという根元があるが故に仕方ない事である。

 

だからこそ、現実のまま、リアルのまま、目の前のありのままの事を見て、感じることが最も大切なのだ。

 

そこで感じた事を自分の経験に照らし合わせながら、どう感じるのか。

そこをまた人に話し、共有し、共感し、価値観を創造していく。

 

 

自らが想像した相手、話は、結局想像の範囲でしかない。

 

リアルに見た、感じた現場と想像が全く一致することなんて絶対にあり得ない。

そして、例え現実と想像という物理的なものが一致したとしても、自分自身の感じ方には大きな差が出てくることは間違いない。

 

それが生きる醍醐味だからだ。

 

想像するだけで完結する世界。それはあの世。

 

僕らが生きる3次元の世界では、想像し、それに従い行動し、リアルの現場を体験し、感じる。

 

このサイクルで完結する。

 

 

 

話は戻り、こういう生々しくも愚直な体験をしてきた人は、やってこなかった人よりも遥かな「情報量」を蓄積することになる。

 

その情報とは「感情」だ。

 

その時々の経験によって感じる事。

これこそがその人の価値観形成のパーツとなる。

 

こういう人になりたい。

こういう人間でありたい。

 

そう思うのは、そういう憧れをどこかで「感じた」からに過ぎない。

そして、その感じた事は、膨大な経験からのフィードバックがあったからだ。

 

そして、何よりもその経験した時々の事に対して、真剣に取り組み、改善しようとしてきたからに他ならない。

 

自らの人生から逃げなかった、という事だ。

 

そういう人間は強い。

なぜなら、経験の再利用ができるからだ。

 

人は1つの事を学び、またもう一つの事を学ぶ。

そして、その学びが増えてきた時に、ある共通点を見つけることが時としてある。

 

それこそが、経験の再利用だ。

 

 

そうやって経験の再利用をしながら、自らの人生に対する疑問を、行動を通して答えを知っていく。

すなわち、価値観を持ち、疑問を抱き、それを正解だと確かめる為に行動をする。

そうやって、自己の価値観をさらに強固にしていくのだ。

 

そして、この一連の流れは、自らの意識、無意識に関わらず、人は皆行なっている。

 

意識的に行なっている人は、自らを望む未来に繋げられ、

無意識な人は他人からの意識によって右往左往する。

 

あなたはどちらだろうか。

そして、どちらを望みたいのだろう。

 

 

全てのきっかけは、自らの価値観、すなわち感情から始まる。

 

あなたがどう思い、どう考え、どう感じるのか。

どう感じたか、故にどう行動したのか。

 

行動を通して感じる事、

感じたいと思って行動する事。

 

目の前のことは、あくまでも1つの現象に過ぎない。

そこまでに至る膨大な情報、多くの人達があってこその「今」になる。

 

現象自体には意味はなく、その裏にある関わった人達の「想い」にこそ意味がある。

 

何をしたくて、この言葉を書いているのだろう。

そして、このしたい事は、この人にとって、どんな幸せの為なんだろう。

この人はどんな価値観を持って、日々を過ごしているのだろう。

 

最後は、一人一人の幸せ、価値観につながる。

そこまで考える事だ。

 

現象を現象として受け取り、反応していると、

その場その場で行き当たりばったりの生活になる。

 

ではなくて、もっとマクロな視野を持ちつつ、個人の具体的な感情まで見ようとする。

抽象度を高く持ちながらも、具体的なことも見るという相互の視点を持つことだ。

 

そこがとても重要な視点だ。


 

人類上の生物は皆、生きていく上で、条件反射というものを備える。

ある一定の条件の現象が起きた時に、同じ行動を取るというものだ。

 

特に人間である僕らは、ある一定の条件に対して、人それぞれによって決まった感情が起こる。

と、同時に、体が反射的に動く。

 

怒られると萎縮して、何も考えられなくなるのも条件反射。

失恋をして落ち込んでしまうのも条件反射。

 

一定の条件は人によって違うものの、「条件が揃った時に毎回同じ反応する」という特性は同じだ。

 

しかし、感情が人間の行動原理だと知った人は違う。

 

一定の条件に対して、自分はどう感じたから、どう動こうとしたのか。

自己分析をする。

 

そこから、もう一度自分の中で感情を呼び起こし、違った方法を選択しようとする。

 

人間である以上、その時に取る反射は仕方がない。

 

ただ、人間だからこそ、次に活かす「学び」は習得できる。

そこに気づけるかどうかだ。

 

自分の感情を操作する方法というのは、人として生まれた以上、永遠に追求する事だと私は思う。それ程までに難しく、一朝一夕ではできない事。

 

ただし、人間として生まれた以上、これを求める事は権利であり義務であるとさえ思う。

そして、それこそが人生を生きていく意味とさえ思う。

 

これを聞いて、多くの人は意味がわからないと思う。

それはそれで正しく、これが腑に落ちるまでは、腑に落とす為の経験を蓄積している時間。

 

条件反射から逃れ、自らが感情を選べる。

それは、その後の行動選択を変えるが故に、自ら人生を選択しているとさえ言える。

 

あの時あんな事をしていなければ、という経験はないだろうか。

人によっては、その一瞬の行動選択を違ったものを選んでいたら人生が全く変わったという人もいるだろう。

 

しかも、それを意図的にできていたら。

 

話を戻して、人はある一定の条件を与えられた、決まった感情から、決まった行動を取る。

そして、その決まった感情に気づいた時に、その感情は選択することができる。

 

自らが望む結果は、どの道なのだろうか。

その為に必要な感情はどちらなのだろうか。

 

行動が結果を生むのではなく、

その時に選んだ感情を元に行動した結果が、現実となる。

 

「怒らないから言ってみな」という言いながらも、伝えると怒る人がいる。

その人の中では、既に行動する為の感情は「怒る」というものに決まっていたのだ。

 

怒りたいから、怒る為の情報を聞き、そして怒った。ただそれだけ。

怒りたくない人は、そもそも怒りたくなる情報は必要としない。

 

そして、両者のその後の行動は全く別物となる。

 

そう考えると、人は、その時その時の条件反射による感情を選択できるのだ。

ただ、多くの人は条件反射というように、勝手に反応してしまう仕方ないものだと捉え、改善しようとしない。

 

それでは人生は望む方向には変えられない。

 

あなたは自分は思うがままの人生を歩みたいだろうか。

 

そうした時に必要なのは何だろうか。

誰かの人生の成功方法だろうか、会社内の肩書きだろうか。

 

 

自らの人生を左右する感情と向き合う事を今ここで覚悟する事ではないだろうか。

人は時に、何でこんな嫌な目に合わなければならないのだと嘆きたくなる出来事に遭遇する。

そして、それは思い返してみると過去に何度か体験をしている感情だ。

 

つまり、問題は過去にも起こっていた。

だが、その時にちゃんと対処しなかったのだろう。

 

だから、また今目の前に現れてきたのだ。

 

では、どうやって対処をするのか。

それは、苦しい感情と真正面から向き合うことだ。

 

私の場合は、感情を細かに観察をした。

どこで感じて、どのように体の感触が出るのか。

 

その時は憎悪に満ちた怒りがあったのだが、まさに内臓が動くかのように感情がうごめいていた。感情が縦に横に暴れまわっていたのだ。

 

しかし、その感情の奥底にはどんな幸せを望んでいる自分がいるのかを探った。

そして、この「得たくない」感情は、自分をどう成長させようとしているのかを考えた。

 

併せて、怒る対象の人、自分の苦しい感情に対し、ホオポノポノを使った。

 

そうしているうちに、冒頭のように、何度も形を変えてきた問題だ、という事に気づいた。

 

そして、そこに気づくと途端に視点が変わり、今後もこんな事を感じたくないという気持ちと、これまで感じていながらも対処できずに繰り返していた無駄な時間がもったいなかったという後悔の気持ちが生まれてきた。

 

まさに、自分の幸せを勘違いしていたのだ。

 

この苦しみである問題が解決されれば楽になると思っていたが、違った。

苦しみである問題が、問題ではないという事に気づく事だったのだ。

 

初めて、その事で苦しむのであれば仕方ないが、何度も同じように苦しんできているのに繰り返すのはバカだ。

 

改善が出来ていない証拠だ。

 

それであれば自分が望む世界、望むあり方を明確にした時に、必要であれば求めればいいし、必要ないと思うのであれば手放すべきだ。

 

手放すとは、自分の幸せはそちらではないと気づく事。

 

この問題をずっと時間をおいて何回も何回も繰り返す事は自分の幸せではないと気づく事。

と、同時に相手の感情にも気づいてあげることだ。

 

なぜ、相手はこんな事をしたのだろう。

どんな気持ちからそうしたのだろう。

この人にとって、それは幸せな事なのだろうか。

 

そう考えると途端に相手へ愛情が湧き、助けたくなる。

ただし、自分の想いや言葉は届かないだろう。

 

そこまでの感情力がないのだから。

 

だから、無駄に嫌われたくないのであれば、無駄に干渉はしない方がいい。

 

 

上記のような事を一つ一つこなして、自分の幸せに気づいていく事が人生の道のりなのかと思う。

生まれてから知識を増やし世界を知り情報を蓄積し、その上で本当に必要な事や自分の幸せは何なのかを改めて掘り起こす。

 

色んな人の価値観や欲望に揉まれながらも、自分は何なのか、何が幸せなのかを見出す。

 

そこにあるのは、自分の感情だ。

 

感情がうごめく時こそチャンスだ。

激しく動揺、悲観、怒る時こそ、何か成長のチャンスだと思った方がいい。

 

一つ一つ対処していけば、いつかは問題だと思う事がこの世からなくなり、何が起こってもすぐに自分の幸せの在り方に戻れるのかと思う。

 

そうやって幸せの幅をどんどん広げていく事こそが幸せへの道のりだ。

 

目の前の問題は問題ではない。

問題だと勘違いし、感情が激しく揺さぶられる事が問題であり、それは深層心理の自分自身が、問題が問題でないと気づかせる為に揺さぶっているに他ならない。

 

脳がイメージし、問題だ!と勘違いしドキドキする。

さて、そのドキドキは自分が求めているものだろうか。

 

理想とする生活に必要なものだろうか。

答えがNOなら、そのイメージは今こそ手放す時だ。

あなたはこれまでどれだけ自分の感情に向き合ってきましたか?

 

 

いつからかワクワクする事が少なくなってきたり、

トキメク事がなくなってきた二十代後半の頃。

 

昔はイルミネーションを見に遠出して、

彼女(今の奥さん)とワクワク、トキめいたりしてたなぁ、と。

 

いつからか自分を押し殺し、

周りにあわせ、仕事に取り組む自分を作っていった。

 

頑張らなければ。

我慢しなければ。

いつか報われるから・・・。

 

そうやって自分の感情を見ないふりしていたように思います。

 

 

でも、こうやってどこか思いながらも、

何だかモヤモヤしている人って潜在的には多いと思います。

 

何が原因か分からないけど急に悲しくなったり、

急にイライラし始めたり。

 

それは自分の事をわかってない、見てない、気遣っていないから。

 

悲しいという感情、イライラする感情が出てくるのは、

その奥にある「本当に望んでいる事」に気付かせてくれる為。

 

根本(深層心理)は人は「幸せ」を渇望している。

 

その為に、どんな感情が表現されるか(表層心理で出てくるか)

 

悲しいと泣いている人の中には、

無意識で、「自分をかまって!」という感情表現で泣いている人もいる。

 

怒っている人の中には、

「俺のいう事を聞け」と支配したいという感情表現で怒る人もいる。

 

 

でも、本当の自分の願望が分かっていれば、

それは泣いたり、怒ったりしなくても別の方法もあると分かる。

 

この深層心理の望みを気付く事が出来ると、

いわばセルフマネージメントが出来てきて感情に流されることも少なくなる。

 

また咄嗟の感情反応で失敗することもなくなる。

 

 

その為に、まず最初は「自分の感情」と向き合うことから。

 

いつの間にか置いてきたあなたの感情。

取り戻してみませんか?

あなたにとって、

マーケティングってどんなイメージですか?

 

以前の私にとっては、

マーケティング=うまく人を騙して買ってもらう、というイメージでした。

 

うまーく誘導して、気付かれないように、

自分の意図するものを買ってもらう、みたいな。

 

根性曲がった考え方ですね・・・

 

 

 

今は、マーケティング=伝える方法だと考えています。

 

自分の伝えたい価値をどうやれば伝えられるのか。

どう伝えれば、相手の中の価値を倍増させられるのか。

 

生の感情、言葉では伝わらないものを、訳してあげる感覚です。

 

 

今、こうやって書いている文章も私の中ではマーケティングの一部でもあります。

 

相手の中の定義付けを変えてあげて、

その人にとって役にたつものだと認識させてあげる。

 

ただ、それは本当に相手にとって役にたつ、

有意義なものである必要があります。

 

 

世の中には、売る為のマーケティングが多すぎるように感じます。

 

ビジネスですから売ることは大切ですが、

売ることを最優先にして相手への価値提供を後回しにしているように思います。

 

 

売るマーケティングよりも、伝えるマーケティングを。

どんなに素晴らしい商品があったとしても、

人に伝えられなければ、存在していないのと同じです。

 

世の中には、本当に素晴らしい商品を持っている人もいます。

 

嘘か本当か知りませんが、

エイズやガンを治せる薬も既に開発されている。

 

これが本当だとしたら、

欲しい人は、売ってくれる人を見つけられなければ、買えないわけです。

 

買うということは、売ってくれる人がいなければ買えない。

 

売る人が、めんどくさいからと言って、

人に話したり、宣伝をしないと人に伝わらない。

 

 

でも、その売る人が、

商品を開発した本人だとすると、売り方を知らない事が往々にしてあります。

 

これまでずーっと、その商品開発に注力してきたから、

売り方を学んでこなかった。

 

良いものを作れば勝手に売れる、という思いもあるはずです。

 

でも、どうでしょう。

 

買いたい人は世の中に沢山いるのに、

存在自体を知らないから買えない。

 

そして開発した本人も届けたい人に届ける方法が分からない。

 

 

結局、良い商品を作っても、「届け方」を知らなければ、

欲しい人にとっても、開発者にとっても損になるわけです。

 

それは言い換えれば、世の中にとって損だという事。

もっと言ってしまえば、罪であるとも言えます。

 

だから「届け方=マーケティング」は学ばなければいけない。

 

そして、これからの時代には自分という存在=商品を、

提示=届けていく為にも必要不可欠になります。

 

それがインターネットというツールを使えば、効率よく届けられる。