皆さん、こんばんは。
佐伯恵太です。
本日、2021年3月1日(月)、オンラインサロン『佐伯恵太のエンタメ科学ラボ』を開設しました!
オンラインサロンに投稿する最初の文章を何にするか悩みに悩んだ末、自分の人生を振り返り、最後に夢を語ることにしました。最後の一歩手前までをブログでも公開させていただきます。最後の部分はオンラインサロンでのみ公開という形になっております。
2021年3月1日〜3月31日まではオンラインサロンが無料となっておりますので、宜しければ是非、その期間だけでも覗きに来ていただけましたら幸いです。
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ぼくの夢 〜俳優・佐伯恵太はハリウッドを目指すのか〜
「自分でする!」
そう言って親に結んでもらった靴紐を解き、自分で結び直すような子供だった。
なんでも自分でやりたがって、人前に出ることも好きだった。幼稚園のお遊戯会では主役のピーターパンとして堂々と演技をしていた。あの頃の自分には、恐れるものは何もなかったように思う。
ピーターパンは大人にならないというけど、僕はどんどん大人になっていった。通信簿には「言動が大人びている」と書かれ、相手が何を望んでいるかわかるようになり、どんどん空気が読めるようになった。それと同時に、自ら進んで人前に出ることもあまりしなくなった。
小学校の学芸会でも面白いように年々セリフの少ない役になっていき、6年生の頃にはついに「家来15」にたどり着いた。相槌と、一言台詞を言うだけだった。家来14と共に。
中学に入ると、帰宅部が無いからという理由でコンピュータ部を選択。その一方で生徒会役員という人前に出ることをしていたのも「推薦されて断れなかったから」であったし、当時の僕のささやかな誇りは「生徒会役員の中で不信任票が一番少なかったこと」だった。
人に好かれたいと同時に、人に嫌われたくなかった。
高校では、水泳部に入部した。5歳から水泳は習っていたし、個人競技なので抵抗はなかった。
ところが、当時は映画やドラマで「ウォーターボーイズ」が大流行していた時代で、先輩から「シンクロやらへん?」と声をかけられてしまった。言われるがままにシンクロを始めて、一夏をシンクロ練習に捧げた後、文化祭でシンクロ公演を行った。
一夏をかけたくらいでは、スキルも経験も何もかも足りていなかった。水泳ができるからといってシンクロができるわけではないし、プールサイドで踊るダンスだって、かなり不恰好なものだったに違いない。
ダンス未経験でしかも海パン一丁で踊るなんて冷静に考えると恥ずかしすぎて、きっと冷静さを欠いていたからできたのだと思う。でも、そうやってシンクロを披露して、観てくれた人に楽しんでもらえたことが、本当に信じられないくらい楽しくて、気持ち良かった。
シンクロを続けた僕たちは、高校3年生の時に、フジテレビ主催『全国高校ウォーターボーイズ選手権2』に出場。竹中直人さんがタイトルコールすると特設プールのプールサイドから炎が出たり、当時新人の平井理央アナがインタビューしてくださったり。芸能界の景色も少し、見ることができた。
その後大学生になっても有志でチームを作ってシンクロを続け、途中でプロ活動になった。一方で学業も続け、高校で理数系を選択してから一貫して理系。大学院入試で京都大学の大学院に入り、修士号も取ることができた。
そして博士課程では、日本学術振興会の特別研究員(DC1)に採択され、学生ながら有給で研究ができる恵まれた環境を与えられた。そこでようやく、大学に残って研究者として生涯やっていく覚悟があるのか、そして、当時まだ続けていたシンクロやエンターテイメントの世界に未練は無いのかと自問自答した。
そして、エンターテイメントの世界を選び、博士課程1年目を終えると自主退学した。研究者として本気で生きていこうとしている人が目指す、特別研究員という身分。その枠を一人分得ておきながら捨ててしまったことについては本当にひどいことをしてしまったと思っている自分もいて、いま科学や研究の世界に恩返ししようとしているのも、半分はこの罪悪感からかもしれない。
そして、その後のシンクロの活動はというと、研究室を飛び出した2年後、方向性の違いが原因で解散した。
それからの記憶はしばらく曖昧で、俳優として活動していこうと決心して芸能事務所に入るまで、どう計算しても空白の期間がある。その間の記憶は無い。
そもそも、なぜ俳優になろうと思ったのか。
シンクロチームの解散直前、高校で始めた頃から数えるとシンクロ歴は10年目になっていた。なんでも10年も続けると変化していくもので、映画やドラマで観た「青春」「笑顔」「元気」といったイメージそのままでやっていたパフォーマンスも、どんどん表現が多様になっていった。
「先が見えない不安や葛藤」といった当時自分たちが抱えていた気持ちをシンクロのパフォーマンスにそのままぶつけてみよう。といった、はじめた頃には考えられなかった表現にも挑戦するようになっていた。
やがて、プールという場所をも超えた「芝居」というフィールドで、自分の表現を磨きたい気持ちが大きくなっていった。そんな中チームが解散したので、それならばと一人で役者として、ゼロからの挑戦を始めることにした。
事務所に入ってすぐ、人気アニメが原作の舞台に出演することができたり、恋愛バラエティ番組に出演することも出来、幸先の良いスタートを切れたように思えた。しかし今思うと、俳優として表現を磨き、探求するのとは別の、目先の知名度や人気というところで一喜一憂していたようにも思う。
そして、ある日突然事務所が倒産して、また一人となった。
しかし本当にありがたいことに、今度は倒産した事務所でお世話になっていた方が立ち上げる新事務所の第1号タレントとして、所属させていただけることとなった。
自分の所属と共に生まれた事務所。
最初に所属した事務所以上に何も無い状態からのスタートで、事務所を軌道に乗せるためということで、メンズ地下アイドルの一員として一年ほど活動した。
シンクロチームの解散直前にはありがたいことに、オリンピック招致イベントでのパフォーマンスや、トップYouTuberが集結するYouTubeFanFest、5000人規模の夏フェスなどでもパフォーマンスできるようになっていたので、地下アイドルとしてユニクロの自前のシャツにワッペンだけをつけて、お客さん7人の前で歌って踊るのには抵抗が無いわけではなかった。
何より、今の自分をシンクロメンバーが見たらどう思うだろう、ということを考えて暗い気持ちになったりもした。
しかし、メンズ地下アイドルの業界の素敵な面も知ることが出来た。自分の居場所ではなかったものの、プレイヤーとしてかっこいい人もたくさんいて、どんな世界にも強烈に光輝いている人がいて、そんな風に輝いている人は、たくさんの人を幸せに出来るんだということを学んだ。
地下アイドル期を経て俳優に戻ったので、とにかく必死に芝居の稽古をしたし、俳優の仕事をいただくために必死だった。気づけば4年近く、そのことだけに、ただただ必死だった。
本当に事務所にもたくさんお世話になり、テレビドラマやテレビCM、映画館で公開される映画にも出演できるようになった。
自分のことを胸を張って、俳優です。と言えるようにもなった。
でも胸を張って、佐伯恵太です。と言えるかというと、それはわからなくなっていた。
掴みかけた大切なものを失いたくなくて、言われたことに従い、言われなくても空気を読んで動いて、誰からも嫌われないように気をつける。
この感覚にはなんだか覚えがある。
そうだ。これはウォーターボーイズに出会う前の自分だ。
そのことに気づいたちょうどその頃、新型コロナウイルスがやってきて、世界を、社会を、芸能界を、そしてエンターテイメントのあり方を変えていった。
お世話になった事務所もコロナ禍で色々と厳しくなり、じっくり話し合いをさせていただいた末、再びフリーになった。
ここで変わらなかったら、もう一生変われない。
ラストチャンスのつもりで、自分が一番自信のあることで、自分の力で勝負をすることにした。
それを考えた時「俳優」そして「研究」という言葉が頭に浮かんだ。
それは「エンターテイメント」と「科学」
この後の人生は、エンターテイメントと科学を横断して生きていくと決めた。
それと同時に、ふたつの夢が生まれた。
---つづきはオンラインサロン『佐伯恵太のエンタメ科学ラボ』で---
オンラインサロンでは、このふたつの夢について語っています。3月中、どのタイミングでご参加いただいても、3月分の料金は無料になります。このブログの続きを見るという目的だけでも、大歓迎です。
今後は夢を語るだけではなく、具体的な今後の活動について、仕掛けていく様々なアクションについて、いろんなことをサロン内で共有し、刺激的で、楽しい場所にしていければと思っています。
今回、自分の人生を振り返って、自分は本当にたくさんの方にお世話になってここまでやってこれたし、人に恵まれていて、感謝しなくちゃいけないなと改めて感じました。
こんな変化してばかりの自分を信じて応援してくださる方々に、最後には成功した自分でお礼を言わなくちゃいけない。そのために、大きな夢をふたつ掲げました。
これで軸がブレないので、今日からまた変化を恐れず、挑戦を続けたいと思います。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
佐伯恵太