生憎の寒さ
「pressure makes diamonds」
「道は開ける」
のどちらかあたりをじじいになっての座右の名にしたい。今はその布石作りシコシコと。単純な文句なほどいい、自分じゃなくて言葉の価値を上げるってとこがミソ。これって並大抵でない怪物を倒し続けた人じゃないと言えないでしょ。ケツの穴にカボチャくらい入れとかないと言えないっしょ。と、血気盛んに意気込んで寒さを紛らしてみたり。そうやって、毎夜テンション上げてるのは、実は軟弱だからなのよね。そんな深読みをすでにされてた方いたら、大ビンゴ!
砂遊び
宇宙がやばい
といっても今私が感じているウチュウカンを他人に伝えることは不可能だ。言葉によって瞬間的で断絶的である宇宙が第三者に伝わることがあるのか。自分が感じたものをそっくりそのまま感じさせられるか。それも全国津々浦々共通のワードの字で。私見として十中八九文章では無理ぽい。なぜなら文章と言うのは論理的なイメージの物流であり、飛躍があっては成立しない。それに飛躍があったところでその飛躍に宇宙を感じることはできない。無論、どんな流れの中にも宇宙は存在しない。突発的に無限にある。つまり、言葉から発想したところで組み合わせの感動しかない。組み合わせで得られる感動の源泉というのは当人の内面、過去だけにしかない。その点宇宙は自由だ。源泉なんてものは有限じゃないし、そもそも源泉なんてものすら必要ない。あらゆる秩序を転覆させる力を持っている。現実逃避なんて言うけど、今思ってる現実こそが現実逃避なのかもしれない。意味が無意味で無意味が意味かもしれない。真意はわからない。真意なんてどうでもいいのかもしれない。だから人間は結局は仕事にしても愛にしても強度を求める。意味の上には安住できない。代わりに、意味の本質である絶望的なほどの不安定さを忘れるくらいのものを求める。
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意味の解らないことをほざいている輩がいたら、その中の何パーセントかは宇宙を感じているに違いない。
今の僕のように。でもその人は運命的に宇宙を感じているのだからしょうがない。恥ずかしいけれどこれが僕のさっき感じたウチュウカン。
ちょっとキアイ、いれてみます!
自分のふんどしで
前提事実としてですね、僕は、非効率的で非合理的、他言語と代替不可能な日本語らしい日本語が好きなのであります。言葉でふざけて遊んでいたいんです。深層心理の階層まで追及すると、ただそんな心の余裕が欲しいんだと思います。例えば、
「すいません、今ドツボにはまっててんてこまいなんで、アズスーンアズポッシブルでそっちに移ります」
と本当は言いたいんですけど、そんなふざけたこと言ったら
「え、だからアウトプットはいつ?進捗状況教えてよ」
とか言われます。そりゃあそうです。僕も22です。何の異論もありません。つまらぬ意地によって発生するややこしいリスクを背負う責任と覚悟は毛頭ありません。
でも、欲を言えば「プレゼン」か「アウトプット」とかとか「タイムマネジメント」とか「ロジックツリー」とか単語、あんまり使いたくないんです。なんか自分がいつもはかない下着を身に付ける気がするのです。でも使う。みんながその下着を身に付けてるし、自分の下着を取りにいっている時間がないからです。
そこでささやかなるテロ活動として、じわりじわり自分の言葉を周囲から無意識のうちに共感を得る形で浸透させていくことにしました。今日はかわいく「ミーティング」を「集会」って言い出すことに成功しました。あくまで突っ込まれないように、さりげなく、自分の下着を装着していこうっていう戦法です。
守破離
能や歌舞伎といった日本の伝統芸能、そして茶道や剣道などの世界に「守・破・離」という言葉がある。その道を極めるための成長段階を示した言葉だそうです。
「守」
まず、師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を習得する第一段階。
「破」
経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。
「離」
これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、思うがままに至芸の境地に飛躍する第三段階。
最近つくづく思うんだけど、先人の開発した言葉を発掘したとき、なんだか異様にうれしい。自分の士気が上昇するのが手に取るようにわかる。もちろん、万能解ではないため、一つのフレーム(下敷き)として活用します。最近このフレームの重要さも気づきました。過去の「破」ろうとだけしていた自分に日々反省する毎日です。
これからっすね。
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話が変わりまくるんですけど、
この方のブログ↓
http://viare.exblog.jp/
面白くて大好きです。
自分と限界
自分のできることを決めるのは自分じゃない。
でも自分の限界を決めるのは自分。
自分のできないことを嘆いて悩むよりも
自分の限界で悩むほうがしんどい。
だったら限界なんて勝手に作らなければいい。ただそんだけなんですよね。
深夜に22号館で作成w (わかる人にはわかるかな)
能書き要らず(キューバ音楽)
まじかっこええ。最高ですね。
映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』とかいいですねえ。形容する言葉が見つからない時は表現が幼くてあどけない感じになりますね。そんな時は大凡「うれしい!」「めっちゃ感動した!」とか自分の状況を端的に表明するしかありません。これに限ってはその分野を知悉して把握するっていう動作が、もはやナンセンスかもしれないと思いました。「能書きを書けない」ってのを能書きにしたい気分。
跳び箱
”やりたいこと”より”すべきこと”重視路線で進行すると決めた以上、スピードつけて間髪入れずに自分にとってギリギリの高さっていう条件を満たしていれば、とにかくそれを跳ぶ実践を繰り返す以外にするこったない。でも実際、目の前に跳び箱がギリギリっぽい高さで何台も置かれると幾分たじろくもんで。がしかしこの走り出しちゃってるスピード感がたまらないのも事実。ざっくばらんに例えてみると、自転車より自動車の運転の方が、脳中の毛細血管ぱっと開いて運転に集中する理由と同一な感じ?
それより今日感動しました。
得た気づきっていうのは「知らないことを知るよりも、知っているつもりを知りなおす方が感動がある」ということ。ある人の話を聞いている最中じわじわ感じたことなんですけど。
俺はこれから死ぬまでにどれだけの人の心を耕せるのだろうか。耕そうとして耕せるもんでもないとピンときてるからこんなやる気のなさそうな言い種です。なんて言うか、あまり感動だけに主軸を置いて考えたり、「感動」という言葉そのものにへつらったりしてはいけない気がするのです。
あ、あくまでも○○時間テレビのことを指差しているのではないですよ。