男女平等が大声で謳われるようになって久しくなりましたが依然として日本には根深い男女不平等が存在します。
日本に来た時に、女性と子供の権利があまりにも低いことに驚いたものです。
いつの間にかそれをどうにかするのが人生の目標となり、わたしは弁護士を目指して某大学の法学部に通いジェンダーの勉強をします。
そこで学ぶのは女性が果たせる役割や、女性が受けてきた差別の歴史、女性をどう男性と同等に扱うか、といったものがほとんどでした。
これに関して、賛否両論が飛び交うことでございましょうが、この教育は根本の部分ではほとんど意味がないように感じています。
それらの教育で果たして男女の不平等が解決するのか、と思うわけです。
わたしの大学は、一応は、ジェンダー教育プログラムを策定するほどジェンダー教育に力を入れていましたので、日本におけるトップクラスのジェンダー教育でした。
それにも関わらず、です。
天下の超一流大学といわれる東京大学の教育ですら以前ブログで紹介したような上野千鶴子氏の祝辞を見ると、やはり間違っているのではないかと確信を深めていくほど、日本のジェンダー教育がずれているように感じます。
そもそも「平等」とはなんでしょうか。
英語にするとEqualityであります。
つまり「平等」とは「まったく同じ」といったような意味です。
この事から男女平等とはどういう意味かと言えば、「男女はまったく同じ」ということになってしまうわけです。
社会的にはそうあるべきです。
しかし男女は人間としての能力が一緒であるはずがないのは明らかでしょう。
「男女平等」の目標としてはむしろ「男女の格差をなくそう」が正確です。
ここで既にズレがひとつあります。
平等よりも公正という日本語のほうが実は適切であるのです。
英語ではEquityと言います。
もう少し馴染みのある言葉で「平等」と「公正」の違いを英語で表すと、
Equality=SAMENESS
Equity=FAIRNESS
となります。
SAME(同じ)とFAIR(フェア:公平)なわけです。
この違いは非常に大きいものであります。
言葉で説明してみましょう。(本当は画像で紹介したいのですが、著作権が怖いので興味ある人はこの検索結果を参照してください。)
はじめに、身長が大・中・小の3人を想像してください。
この3人がとあるライブを後ろから見ています。
しかし、前の人の頭が邪魔で見にくいわけです。
では、ここで彼らがそのライブを見やすいよう「平等」に、一人一個ずつ台をあげましょう。
そうすると、彼らはライブを見やすくなりますね。
ここで留意していただきたいのが、そもそもの彼らの身長の「差」は埋まっていません。
全体的に見やすくなっただけです。
これが「平等」の考え方です。
対する「公正」はというと、
その身長が違う3人の目線の高さが一致するように、それぞれ違う高さの台を与えるわけです。
一番大きい人よりも中くらいの人に大きい台を、それよりもさらに大きい台を小さい人にと言った具合です。
そうすると、彼らの視線の「差」は埋まり、且つライブが見やすくなるわけです。
これが「公正」であります。
国民が期待している男女が平等である状態はむしろこちらなのです。
差を埋める事で同じ立場を得るということです。
ライブが見やすくなるようにみんなに同じように対応をすることではありません。
つまり「男女は平等」を謳っている目的としては「男女の生きやすさのバランスを取るため」であるのに、
その実情は「男女を一緒の能力の人間として扱おう」になってしまっているのです。
これでは先の理論で言う目線の高さが合う、ことは一生ありません。
男女の生きやすさの「差」はそのままであるわけです。
日本のジェンダー論が遅れている最大の原因はここにあると考えております。
目指したい結果とその実現のための考え方がずれてしまっているのです。
事実わたしが受けてきたジェンダー教育も如何に女性が男性に対して対等な存在かを説いています。
先ほども言いましたが、社会的には対等でも、肉体的に対等あるはずがありません。
だのに、男性ができる仕事は全ての女性にもできると言う認識を広めようとします。
もちろん、一部は事実です。
男性がやった方が生産性が高いと考えられている仕事を同じクオリティもしくはそれ以上でできる女性もいます。
しかし、それはあくまで個体差です。
一般論ではありません。
そういった一般論で女性の権利を奪わないための「男女平等」の使い方です。
ですから「男女平等」は男女全てが同じ能力を同等に有している、というものではないのです。
例えば、女性の平均値と男性の平均値を比較すれば身長や50m走のタイムなどは大きく違います。
明らかに男女には「差」があるのです。
そしてそもそもこれまでの世界は男性が作ってきた社会であるために、その差がどうしても男性を優位にします。
ですから女性や子供は弱い立場にいるのです。
どうしても損をする場面が多くなってしまうのです。
だから彼女らを守らねばなりません。
その昔、恐ろしいことに女性には人権がありませんでした。
それを奪還するために命をかけた人々は、女性の権利を求め「女性も男性と同じく人類だ」という意味で「男女平等」を掲げてきました。
今蔓延っている差ではなく、そもそもの土俵に立つための戦いです。
そこから時代が進むと今度は土俵に立ったことで「差」があることが明確になります。
人権を回復しても、容易に生きるのが難しい世界だったのです。
だから「男女平等」は謳われ続けてきました。
しかし、今度は「男女の間にある差を埋める」ための「男女平等」に変わっていたのです。
正直それは「公正」という言葉なのかもしれませんが、この際言葉などどうでもよいでしょう。
大切なのは弱い立場の人を弱いままにしない社会を作ること。
日本で目指すべき「男女平等」のためには、何よりもまず「男女の差」があることを認めなければなりません。
そして、その「差」を埋めるためには、政策として、個人として「平等(公正)」になるように働きかけることは必須です。
「公正」は本来の「平等」と違って、個人の意識だけでは実現しません。
それに気づかない限り、男女平等が叶うことは絶対にないのです。
男女は同じ!という主張が男女平等(公正)を突き崩し、女性の立場を不利にしていることにそろそろ気づかないといけません。
下平