もう一ヶ月ほど前の話です。

桜が咲き、各大学で入学式が行われ、例に漏れず東京大学でも入学式が行われました。

式典にはつきものである挨拶ですが、東京大学では祝辞として上野千鶴子さんによるスピーチがなされました。

さて、この祝辞は日本全体で大きな波紋を呼ぶところとなりました。
多くの方がFacebookやTwitter等でこのスピーチをシェアし、礼賛したように覚えます。
一方で東京大学生の反応は逆でありました。
「これが祝辞?」「祝う気ある?」といったものがツイッターをしめ、拒否反応も多く見受けられました。
さらに面白いのが、これを掘り出した人々が「なんて素晴らしいスピーチなのに、高学歴はこれだから・・・」と恒例のピントブレブレ戦争が起こっていたことです。

これに関しては以前触れたので今回は割愛しましょう。(令和戦争に終止符を。

「ここで皆さんに伺いたいのがこれは本当に礼賛されるべき祝辞であったのか?」

ということです。
この先何度も申すかもしれませんが、わたしはこの祝辞が問題だ、ということが言いたいのではありません。

 

今回の東大入学式の祝辞はおおまかに四部構成でした。
・女子学生の置かれている現実

・女性学のパイオニアとして

・変化と多様性に拓かれた大学

・東京大学で学ぶ価値

と言った具合です。

詳しくは「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」を御覧ください。

 

かくいう私も知り合いの紹介でこの祝辞を知り、その紹介も名文をかいつまんで紹介しているわけですから、わたしは衝撃を受けました。

これが天下の東京大学か、と。

とりわけ、好きだったのが、

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

少し言い方は強いですが、これは厳然たる事実です。
環境は間違いなく、成功の立役者の一人です。
その後、

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

と彼女は続けます。
まさにリーダー論です。リーダー論はまたいつか何かの折に触れましょう。
他にも、

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。

とありました。そうですね。言わずもがなです。
兎にも角にも、これらは、世界の最も恐ろしい真実で、それこそ高校生までの自分が見たくなかった/受け入れなかった、そして周りも押し付けようとはしなかった真実である気がします。

それを研ぎ澄まされた刃の鋭さを以て、喜びに満ち満ちた新入生の顔面に向けるのです。

その恐ろしさ、そして心意気にわたしはガッとやられました。

 

このときのわたしはこの祝辞に批判が起きていたことも知っていたので、正直なぜ批判が起きていたのか、推し量れませんでした。

それこそ「まだ若いし、この真実から目を背けたいんじゃないのかな…?」なんて思ってしまいました。

まあ、それはそれとして、衝撃を受け、一瞬にして上野千鶴子さんのファンになったわたしは、当たり前ですが、全文を読みます。

それで愕然としました。

これが天下の東京大学か?と。

 

おそらくわたしもこの文脈でこう言われては彼女のことを好きにはならなかった気がします。

後半で言っていることは至極まともで且つセンセーショナルですが、前半はあまりにも計量分析の乱用というか、因果関係をごまかしていると言うか…研究者の所業とは思えないレベルの論調です。

だからこそ首をかしげてしまうのです。

このスピーチをただ礼賛することは、今の日本にとって正しいことなのか、と。

およそまともな神経であれば、前半と後半の脈絡の無さに気づかないはずがないし、前半の凡庸さと後半の素晴らしさのギャップは分かるはずです。
なのに、SNSに上がるのは、ただただ純粋なるこのスピーチの素晴らしさ。
もしくは、このスピーチを否定する人間への否定。(これに関してはほとんどの否定はなぜこんな論調なのかという前半への怒りであって全文への否定ではないので、批判も不適切だと思いますが……。)
つまり、全文読んだのかな?と思ってしまいます。
調べたのかな?と思ってしまいます。

ここで、わたしの疑問です。
いつから情報というものは、シェアされてきた情報だけになってしまったのでしょうか?
なぜシェアされてきた以外の角度を見ないのでしょうか?
情報というものは流れてくるものではなく、得に行くものです。
現在の「追加で調べ無い文化」は間違いなくSNS時代が生んだ弊害だと思います。
SNSが普及し、たくさんの情報が流れてくるようになりました。
だから、多くの人が、たくさんの情報を得ている「つもり」になっている気がします。
しかし、それはあなたが選んだ人々が流している限られた情報。
何かを知るためには少なすぎるのです。
わたしも未熟者です。人に言えた身分ではありません。
でも、これに気づいているのに放置なんて嫌ですよ。
だって、そろそろ、情報というものを見直さないと、今度は自分を見失う人が続出しそうですから。

私含め。




下平