あらゆる炎上は、
「代わりの怒っている人」によって
引き起こされているのだと思います。
「代わりに怒ってあげる」というのは、
その人のやさしさの表れだと思います。
でも、じぶん自身が
被害を受けたわけでもないのに
必要以上にだれかを攻撃するのは、
結果としてだれかを苦しめることと
ほかならないのだと思っています。
平和のためにあるはずの宗教同士が、
お互いの教義を巡って戦争をはじめるように
本末転倒になってしまうんじゃないかな。
疑問を持つことは大切だし、
その疑問こそが正しい理解に
つながることもあります。
だからこそ、じぶんが
当事者でもないのに怒りを感じたときには、
一時冷静になって"怒り"ではなく
"疑問"に変換できないかを
考えるべきだと思うのです。
怒りの意見は怒りの反論を呼び込み、
建設的な議論にはなりにくくなります。
傷ついた人のこころに寄り添う
やさしさの証。
でも「傷ついた"だろう"」という想像は、
往々にして誤っていることもあるし、
一緒にかなしんで寄り添うだけでも
十分なこともあると思うんですよね。
今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。
代わりに怒って傷つけた人の背後にも、
その人を愛しているたくさんの人がいる。