もしも社会が機械のようなら、
「機械の仕組みを説明する」ように
なんでも「わかること」として
説明することができます。
どこが壊れたから
部品を交換すればいいだとか、
あそこが詰まっているから清掃して
ここにエネルギーの無駄があるから
調べて効率をもっと上げようとか、
社会を機械にたとえて考えれば
「わかること」だらけになります。
でも、社会が生きものなら。
生物のからだの構成成分、
機能や構造は「わかること」でも、
ぼくらに「いのち」はつくれません。
わかっているつもりでも、
ほんとうはわかっていないとか、
わかっていないことすら
わかっていないとか、
ほんとうは「わからない」のほうが
圧倒的に多いのだと思います。
今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。
未知は不安材料か、
それともポテンシャルか。