"満場一致で決まるようなことは、
たいていうまくいかないんだよね。
すべての人が賛成なんて
そんな不自然に決定されたものが
いいものであるわけがないんだ。"
そういう「言い伝え」は、
むかしからいわれていました。
でも、だからといって、
満場一致にならないような提案を
ぼくらはしようとしませんね。
実際にそういう考えでなにかが
決まることは稀だと思います。
それは、きっと、
さまざまな決定の場面で、
決定を判断するための根拠
(エビデンス)が必要とされて、
決定までの手続きにまちがいが
ないことが求められるから。
世の中で、
大事なことを決めるときには、
「わからないこと」はないように
したがるということかな、と。
"社会人ならあたりまえだ。
すべての結果には原因があるから
「わかること」をみんなで持ちよって
結果を出す方法を模索することは
なんらおかしくないじゃないか。"
ま、そうなんですが、
なにか小骨がひっかかっていて。
社会は機械か、生きものか。
もしも社会が機械のようなら、
「機械のしくみを説明する」ように
なんでも「わかること」として
説明することもできるでしょう。
どこが壊れたから
部品を交換すればいいだとか、
あそこが詰まっているから掃除して
ここにエネルギーの無駄があるから
調べて効率をもっと上げようとか、
社会を機械にたとえて考えれば
「わかること」だらけになる。
でも、社会が生きものなら。
生物のカラダの構成成分、
機能や構造は「わかること」でも、
ぼくらは命をつくれません。
わかっているつもりでも、
ほんとうはわかっていないとか、
わかっていないことすら
わかっていないとか、
ほんとうは「わからない」のほうが
圧倒的に多いんじゃないのかな。
風がどこから吹くかを
機械を分解するようには
(まだ)調べられません。
で、じゃあどうするかというのは、
正直まったくわからないけれど、
「わかること」だけでいっぱいにせず
「わからない」が入る隙間というか
伸び代を少し残しておこうかな。
今日も「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
風が吹いて桶屋が儲かったとき、
「そんなバカな!」とたじろぐより
「おもしろいな!」とわくわくする
余白を持っていたいなって。