嫁姑の確執についての
コラムをちらっと読みました。
具体的な事例は割愛しますが、
確執のきっかけのいたるところに
「よかれと思って」がありました。
嫁によかれと思って。
姑によかれと思って。
この「よかれと思って」が
どうやらクセモノのようです。
「よかれと思って」は、
「いいこと」とセットになっていて、
される側も断りにくいんですよね。
からあげに「よかれと思って」
レモンをかけてくれたのだけど、
ほんとうはかけないでほしかった…
とかね、よく聞く話ですけれど、
「いいこと」をしていると思いながら
「いいこと」をするっていうのは、
たぶん、あんまりよくない。
歌がうまいからって
四六時中、窓を全開にして
大きな声で歌っていたら、
近所迷惑ですものね。
もう少し踏み込んで話すと、
「こういうのを許してしまったら
社会が成り立たなくなるぞ!」と、
口角に泡をためて怒鳴っている人も
「よかれと思って」(正義のために)
言っているのかもしれない。
粛清、断罪、抹殺、始末…
元は「よかれと思って」から
きているんじゃないかな。
そういえば、むかし研修で、
いじめっ子の手紙というのを
読んだことがあるんですが、
"いじめられる側にも原因がある"の
なんとも理不尽なリクツのなかには
社会秩序を守る側(正義)に立って
みんなのためにやりました的な
内容が書かれていました。
からあげにレモンから
嫁姑の確執やいじめ問題、
国際問題にいたるまで
「よかれと思って」の存在が
見え隠れしていそうです。
「よかれと思って」って
取扱注意の代物なんだろうな。
もし使う機会があるのなら、
ジャイアンのリサイタルみたいに
ありがた迷惑になっていないか、
いちどフィルターを通してから
やったほうがいい気がします。
じぶんの言っていること、
やっていることがただしいと
信じて疑わないっていうのは、
不健康なのかもしれません。
嫁姑の確執コラムもそうですが、
おたがいに"じぶんがただしい"と
信じて疑わない姿勢っていうのは
争いを生むんだろうな、きっと。
あるボランティアの主宰の話が
印象的で記憶に残っています。
「やってあげている。
少しでもそう思っている人は
迷惑なので帰ってください。
ボランティアは好きでやることで
称賛に値しないことを忘れずに」
今日も、「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
いいこと、好きなことって、
近所迷惑を自覚しつつやるのが
いちばんいいんだと思います。