試合をするとき、
じぶん(たち)が全力を出せれば
おのずと勝利に繋がる、
と考える人(チーム)があります。
一方で、
相手に全力を出させないことで
じぶん(たち)の勝利に繋がる、
と考える(チーム)もあるわけです。
対戦相手との力の差、
その人やチームの哲学、
さまざまな要素がありますから、
どちらが正しいということ
ではないと思います。
でも、語り継がれる名試合というのは
お互いが全力を出しあうような試合が
ほとんどなんだろうな、きっと。
ひとりの女性が、
ふたりの男性に告白されている場面を
想像してみるとわかりやすいです。
どちらの男性も、
もう一方の男性について
やれ浮気者だ、スケベだ、不細工だと
悪口を言って罵りあっていたならば、
おそらく女性はどちらの男性も
嫌いになってしまうでしょう。
「勝てば官軍」だとか、
「勝ったほうが正義だ」とか、
全力を尽くして戦うことの意味が
「なりふりかまわず勝つ」という方向に
偏り過ぎているようにも思えます。
選挙っていうのは、
そういう側面が多分にありますよね。
相手の力を弱めることで、相対的に、
じぶんが勝つという方法をとっている
生きるか死ぬかの
(勝負の)世界にいる人からすれば
「なにを甘いこと言ってるんだ!!」と
怒られてしまうかもしれないけれど、
遠い島国から1年近くにも及ぶ
〈罵り合い〉を見ていて思ったのだから
いつもより客観的に考えられている
と、(勝手に)思っております。
「勝てば官軍」というのは、
もちろん納得する部分もあるんだけど
その勝利で失っていることについては
あまり語られていないんじゃないか
と、思うんですよね。
だれもが勝つことに真剣になるのは、
勝つことが「機会」に大きく影響する
という部分が大きそうです。
「勝てば◯◯できる機会をもらえる」
たとえば「お金持ちになりたい」
という願望を紐解いてみると、
お金で「機会」を増やしたい、
と、なるのかもしれません。
「モテたい」は、
異性との「機会」を増やしたい。
「痩せたい」は、
痩せることで得られる「機会」を
増やしたいともいえそうです。
下克上や革命が
ドラマティックに描かれるのも
「機会」が大きく関係していそうです。
そうやって考えてみると、
勝つことで失われる「機会」って
あるんじゃないかと思えてきます。
今日も、「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
「結果がすべてだ」というのだって、
その結果によって「機会」が
増えたり減ったりするからで、
ということは、逆説的に、
「機会」に影響しないのであれば、
結果なんてどうでもいい。
…とも言えるのかな。