ともだちがいじめられているときに、
「やめろよ」という勇気と、
バンジージャンプを飛ぶときに
その一歩を踏み出すために
必要な勇気というのは、
違うものなんでしょうかね。
電車の中でお年寄りに
席を譲るときの勇気と、
崖のような山を登る勇気と
なにがいったい違うんですかね。
いじめをとめることだとか、
お年寄りに席を譲るような勇気は、
学校で道徳の時間に
学んだ通りの勇気です。
ルールを守る勇気。
ともだちを大切にする勇気。
一方で、バンジージャンプや
崖のような山に登る勇気というのは、
きっと、先生にほめては
もらえなそうな勇気な気がします。
勇気っていうのは、
いったいなんなんだろう。
ぼくらが勇気と呼ぶものは、
じぶんの中の生存本能にあらがって
行動するときに必要なものと、
たとえば定義してみます。
いじめをとめるという行動は、
標的がじぶんになる可能性もあり
リスクです。
防衛本能が正常に作動すれば
避けるべき行動です。
その本能にあらがうときに
勇気が必要になるんじゃないかな。
バンジージャンプも登山も、
ちょっと大雑把だけれど
スポーツに分類したとして、
すべてのスポーツには
勇気が必要だと思っています。
つまり、本能にあらがう行為です。
サッカーでスパイクを履いた相手に
激しいスライディングタックルを
されることを「削る」というけれど、
プロのサッカー選手でも
削られることには恐怖を感じます。
ましてや、それで一度
怪我をしたことがある選手なら
なおさらです。
それでも、一流と呼ばれる選手たちは
あらゆる手段をつかって
その恐怖を克服するわけです。
勇気というのは、きっと、
不自然なんです。
からだの自然な反応と
真逆のことをするときに
必要なものなわけですから。
ですから、勇気は
必死なひとに、
本気なひとにしか、
出すことができないんじゃないかな。
この定義によれば、
いじめをとめる勇気も、
お年寄りに席を譲る勇気も、
バンジージャンプに必要な勇気も、
崖を登るときの勇気も、
じぶん(命)以上に大事な
「なにか」のために出している、
ということになります。
今日も、「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
ということは、
じぶんのために出す勇気らしきものは
勇気ではないことになるなぁ。