当会が小さな町の教室として始まったのは昭和39年でした。
まだ、四谷大塚、日能研も無く、地域には高校受験の中小教室が数多く営業している時代でした。京都の大学で心理学を専攻した先代は、どうも以前から慶応の幼稚舎に興味があったらしく、幼児教育の指導経験者を探し、基盤作りを模索していました。
習うより慣れろということで、東京の麹町で小中学生の部門に加えて幼児教室を立ち上げ、朝と昼は幼児、夕方から小中学生という、実に効率の良い経営形態を作り上げました。そのころに「慶進会」という教室名が定着したのです。。
さて、当時幼児教室として有名だったのが青山の桐花会幼児教育研究所(現在は閉鎖)。そして伸芽会(現在と経営者は異なる)や三田英才(随分前に閉鎖)も当時人気がありました。
何れも初代経営者の個性色濃い教室ばかりです。
そこに一般には知られていない「もろき会」(館と別称で呼ばれていました)、幼稚舎ファミリーのための幼稚舎受験専門教室があって、 「幼稚舎に縁故があるらしい」「元幼稚舎の先生がスタッフに加わっているらしい」「合格のお礼はベンツ一台分」等の噂が先行する、知る人ぞ知る教室として存在していました。
広告も出していません。紹介者しか入り込めない特殊な世界ですから、噂ばかりが一人歩きしてしまう教室です。祖父母や親が卒業生という理由で、孫や子を通わせる方が現在もおられるのかもしれませんが、最近は噂も聞かなくなって寂しい限りです。
当会のお手本は「桐花会幼児教育研究所」でしたが、すでに40年の歴史となってしまった当会のサマースクールは、「もろき会」を参考にして先代が始めました。
当初、当会のサマースクールは二週間(中間日の一日だけ近くの宿泊している保護者の元で過ごす)のロングラン日程でした。しかしながら、「もろき会」は実に一か月だったのです。
もろき会の合宿は、夜は近くで宿泊している母親の宿舎や別荘に帰り、一緒に過ごす形態の半合宿指導でした。それにしても軽井沢の地で一か月の長期間、ホテルか別荘で過ごせる条件を満たしているのですから、庶民では考えられない程の費用であったと想像できます。
当時、「軽井沢に千坪以上の別荘地を持ち、母子は夏の二か月間軽井沢で過ごす恵まれた家庭」が多数幼稚舎等に通っていました。その時代は、限られた層だけに認知されていた幼稚舎受験であったことが、この例からもご理解いただけると思います。
そこで我が教室です。「14日間のほぼ完全な預かり形態の合宿」として始めたのは、先代の発想でした。完全預りの合宿としては異例の期間だったと思います。ここから当会40年のサマースクールの歴史は始まったのです。
慶進会の歴史…それは合宿とともに(2)「奇跡の七日間」 に続く
麹町慶進会 塾長 島村 美輝