人道の港 敦賀ムゼウム 福井県敦賀市 | 松山・ジジイの徒然記

人道の港 敦賀ムゼウム 福井県敦賀市

敦賀港は私的には北海道・苫小牧への長距離フェリーの発着点

としての何度か利用した思い出があります。

 

この資料館訪問は長年の念願でありました。

※   今回の旅の主目的は「世界に誇れる日本人」と私は

リスペクトしている「杉浦千畝」関連巡りです。

このムゼウムと杉浦氏の故郷に建つ「記念館」を訪ねました。

紅葉鑑賞、温泉堪能は言わば、おまけです。

 

「ムゼウム」とはポーランド語で「資料館」を意味する言葉です。

このムゼウムは2020.10にリニューアルオープンしたばかりで、

建物も展示物も新しく充実しておりました。

館内は「撮影禁止」でした。残念

 

 

 

 

 

 

古くから大陸への玄関口として栄えた敦賀港は、1920年

(大正9)にシベリアにいたポーランド孤児が上陸したことや

第2次世界大戦中に杉原千畝の命のビザに救われた多くの

ユダヤ人難民が敦賀にたどり着いた史実を紹介している。

 

☆長くなりますが・・・関心のある方はご覧ください。

 

【ポーランド孤児】

ポーランド孤児とは、ロシア革命後の内戦状態であった

シベリアで家族を失い、過酷な状況にあったポーランドの

子どもたちのことです。孤児を救うために、日本赤十字社は

1920から1922年にかけて孤児の受け入れを行い、

合計763人のポーランド孤児が敦賀港に上陸しました。
 当時の敦賀の人々は、菓子・玩具・絵葉書等の差し入れや

宿泊・休憩所などを提供するなど、温かい手を差し伸べました。

 

【ユダヤ難民】

1940年から1941年、ユダヤ難民はナチス・ドイツの

迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事代理

・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」を携えて、リトアニアから

ウラジオストクを経て、敦賀港に上陸しました。
 苦難の旅路を経て敦賀に降り立った彼らは、敦賀の街が

「天国(ヘブン)に見えた」と後に語っています。
 上陸した彼らに当時の市民は、リンゴなどの果物を

無償で配ったり、銭湯を無料で開放したりしました。