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こんにちは。
今シーズン主将を務めて参りました。藤永直透です。
最近は【最後の】と言うキーワードをよく耳にします。
先日は最後の月報。
そして今日最後の協生館での練習を終えました。





7年。実に2555日。

もう現役でここに来れる日は来ない。

ここで色んなことを経験した。

本当にお世話になりました。

ありがとうございました。

















そして今、僕はついに最後のブログを書いています。

とても感慨深いです。

このブログは高校生の頃から読んでいて、当時の大学生の先輩方の書くブログを楽しみにしていました。

大競に入って初めて執筆したブログを今でも鮮明に覚えています。




あれから数え切れないほどのブログリレーをしてきました。

1年生が入る前までは人数も今ほど多くなかったので、月1でブログを書いていました。

それも今日が最後。

今回は誠心誠意しっかりと僕の思いを綴らせていただきます。



























「自分は水泳が好きなんだろうか。」

























そんな疑問を僕はずっと抱えていました。




プールに初めて入ったのは、3歳の頃で、そこから習い事として水泳を始めるのにそう時間はかかりませんでした。



イトマン西宮、ルネサンス、イトマン新百合ヶ丘。

所属を転々としながら当たり前のように水泳を続けてきました。そしてありがたいことに僕はたくさんの習い事に通わせてもらっていました。書道、公文、そして水泳。


非常に贅沢な話ですが、幼い頃の自分にはとても辛かった記憶があります。

本当に贅沢な話です。


今では通わせてくれた両親に感謝していますが、当時の僕にとっては習字も公文も水泳も進んでいきたいとは思えませんでした。

もちろん楽しくてしょうがない時期もありましたし、早く習い事に行きたいと思っていた時もありました。

ただやはり学校終わりの放課後に友達とドッチボールしたり、鬼ごっこをしていたりする方が好きでした。


そして、中学に上がり、中2までその生活が続きました。

公文か習字した後、水泳の練習をする。

19時から21時半に練習がありましたが、17時に街のチャイムが鳴ると憂鬱になっていました。


中2で公文と習字をやめましたが、それでも水泳だけは不思議と辞めたいと思いませんでした。

特段輝かしい成績を収めているわけでもないのに。 


そして中3になり、受験が控えてきたため、9月の試合を持って一旦水泳から離れました。

約半年間の間でしたが、水泳から離れ勉強してるだけで良いと言うのは、当時に僕にとって楽しくて仕方ありませんでした。

17時のチャイムが鳴っても家から出なくていい。椅子に座って問題集解いてるだけでいいんだ、と。

当然それなりに必死で勉強しましたし、ここでも支えてくれた両親には本当に感謝しています。

結果、無事慶義塾高校に入学することができ、そして当たり前のように水泳部に入部しました。


なぜでしょうか。

あんなに憂鬱になるほど嫌だった水泳を。

他の部に入る気にも水泳をやらないと言う選択肢も、僕の頭には一切浮かびませんでした。気がついたら水泳部の体験に足を運んでいたんです。


しかし、今思えば、これは正しい選択でした

この慶應水泳部との出会いが、僕の水泳に対する想いを変えた、いわゆるターニングポイントだったと確信しています。


話が少し取れますが、僕は部活練と言うものに強い憧れを持っていました。中学はクラブ練習で経験がなかったからでしょう。学校終わりそのまま練習をして、19時には家に帰れる。

素晴らしい。

なんてQOLが高いんだと当時16歳の僕は微笑んでいました。


そして、いざ足を運んだ慶応の施設、いわゆる協生館を目にした時は、驚きの連続でした。

まず広い。広すぎる。

プールもそうですが、プールサイドが特に印象的でした。

そして湿度をあまり感じさせない行き届いた空調設備、可動式の床、大会で使ってそうなコースロープ、完備されたドライ器具。

素晴らしい。



そして同期。

初めて部活での横のつながりを感じたのも、慶応でした。練習後一緒にゲームしたり、逆に一緒に残って筋トレしたり、気持ちの良い同期でした。



その中でも、僕が最も驚いたのはコーチでした

今まで当たり前のように、大人のコーチにこれやれ、あれやれと言われ続け、遅かったらブチ切れられる練習をしていました。

しかし慶應水泳部はコーチが大学生でした。決して強要はされず、メニューは一緒に話し合って決めていく。

僕にとっては革命的な出来事でした。


そして、何より[考える]水泳の環境に初めて触れたのも高校でした。

当時の僕にとってはイメージできない言葉でしたね

「考える?腕回すだけじゃないのか?」と。



入部後の慶応での練習は

僕にとって何もかも新鮮で本当に[楽しかった]です。


楽しい。


素晴らしい感情です。

心から水泳を楽しめたのは高校からかもしれません。



やらされる練習、泳がされる練習ではなく、

主体的に課題を持ってなぜ今自分は水泳をやるのか泳ぐのか。



自問自答を繰り返し、自分を見つめ直すことで水泳に対する自分の考え方が変化していくのを感じていました。

自分の強み、弱みを理解して、それぞれ伸ばしていく日々はやりがいがありましたし、何より、コーチとの二人三脚の日々、先輩、同期と切磋琢磨する時間は楽しかったです。



そして高校1年での県高校800mフリーリレーの予選出場をさせていただいた時から、私の水泳に対する情熱はメラメラと思い始めました。



コーチとともに考える水泳を体現しながらメキメキと力をつけていき、自分に少しずつ自信がついていったのを覚えています。しかし、そのまま迎えた高校2年でのインターハイリレーでは、僕の力不足で決勝には行けませんでした。

あの年ほど自分の非力さを痛感した事はありません。

現実はそう甘くありませんでした。



その後、私はシーズンオフも取らずに文字通り血が滲むほどの努力を積み重ねてきました。毎日練習後は家で90分はドライをしていましたし、既存の練習に加えて大学の朝練にも参加していました。



本当に水泳一色。

確かにきつかったですが、絶対に3年でリベンジすることだけを目標に耐え抜きました。

そして努力は実りそれまで遠い存在だった、ライバルたちに追いつき追い抜き、今年こそと思った時ある出来事が起こりました。



コロナウィルスによる肩高校、関東インターハイの中止。




全身全霊、高校で全てを懸けて引退するつもりだった当時の僕にとっては本当に受け入れがたいものでした。

学校もオンラインになり、部活は禁止。満足に練習もできず、目標すらなくなった。



あんなに楽しかった水泳がどんどん嫌になっていく。

気がつけば、最初は早く再開してほしいと思っていた練習ももう行きたくなくなってしまっていました。



やっぱり水泳はつまらない。

何よりあの努力をもう一度する気力は残されていませんでした。

そして僕は高校で水泳をやめることを決意し、大学でバスケをやると誓いました。



高校3年の夏に部活を引退し、そこから3年ぶりの水泳なしの生活を送りました。友達とひたすらバスケをやる日々。

1日に100本ぐらいシュート受けた日もありました。

あの日々は間違いなく楽しかったですが、どこかやり切れない思いもありました。






















不完全燃焼。
















高校時代のライバルたちはまだ水泳を続けているのに、自分は何をしているんだろうか。



いや、もう水泳なんてやりたくない。

そう自分に言い聞かせて半年を過ごしました。








毎日のルーティーンだった筋トレとストレッチもやめ食事に気をつかなくても良い

体力も有り余り、定期テスト対策を本気でやって100点を取ったこともありました



まさにノンストレス。

勉学に励みやりたいことをする。



そんな毎日を過ごしながら、高校卒業を控えた3月。

YouTubeを見ているとあるライブがオススメに流れてきました










 




春季JOC。


















「もうこんな時期か」

そう思いながらライブ中継を見始めました。





画面上にはかつてのライバルたちがいました。

懐かしい感覚。

競泳リザルトを見て、CSの速報に目を通す。

ソワソワしてきた。

その日、感化されて腕立てを6回だけしたのを覚えています。

そこから高校時代の先輩やコーチとご飯に行く中で、水泳の思いがまた燃え始めてしまってきたのです。




















水泳がしたいです、、、!!!!





















実際には、こんな三井みたいなこと言ってませんが、あの時、自分の本当の気持ちに気づいた気がしました。

















そして、この大競に入部します。

初めての練習。

心なしかワクワクしながら水着に履き替えていたのを覚えています。



「どのくらい泳げるのかな、意外と耐えてたりして。」



そんな甘い考えを持ちながら200日ぶりのプールに飛び込みました。すると



upが回れない。

100m1:30サークルにすら回れない。

そして50mのMAX。



「まぁ26くらいは出るだろう。」 

そう息巻いて無呼吸50mfrをする。



















「なお30.1!」














マネージャーの声が耳に飛び込んできました。

確か長野巧さんだった気がします。

あの後詰んでんなぁ笑と煽られた記憶があります。



対する僕はそんな俺の耳に入らず、頭の中で



「30?あれ水泳での30って速かったんだっけ。え、、30?」



ちなみに無呼吸はできなくなっていました

こうして絶望のどん底から僕の大学競技生活は幕を開けたんです。



















あれから本当にいろんなことがありました。


どれだけ練習をしても

過去の自分を超えられない。


次々と同期が部員が辞めていく。



暗くて長く、終わりのないトンネルを匍匐前進しているような感覚。

苦しかった。

でも逃げ道はある。いつでも出れる。

楽になりたい。















自分はなんでここにいるんだろうか。

年に数えきれないほどある試合のたびに、吐きそうなくらい緊張する。

周りはどんどん結果を出していく。

俺のピークは高校だったのかもしれない。

水泳をやっていなければ、、、。














そんなことを考えてしまう自分心の弱さが嫌になる。















それでも、辞めようとは思いませんでした。

大学でも水泳をやると決めた自分の選択を正解にしたかった。

もしかしたら、ただ縋っていたのかもしれない。















水泳とは不思議です。

99%は辛い日々なのに、たった一瞬だけ。

たった一瞬だけ、泳ぎ終わって振り返り、ベスト記録が電光掲示板にうつっていると嘘みたいに楽しくなってくる。

あれだけ苦しかった日々が全て報われたような。
















2年。

僕がS1でベストを出せたのは入部から2年でした。

嬉しかった。

たった0.6。

それでも、今までのどんなベストよりも価値を感じた。













 


それからどんどん速くなりました。

高校時代には考えられなかったほど。

見たことのない景色も見させてもらった。

感じたことなかった感情も。












そして、今。

僕は主将になりました。

果たして、先輩方から受け継いだバトンを

後輩達にしっかり渡せているのでしょうか。



この歴史ある水泳部の主将になれたことを誇りに思います。




















しかし、同時にその重みに負けそうにもなりました。
















あまり言いたくはありませんが、人には経験しないと分からない苦労が絶対に、あると思います。

主務や他のメンバーは、僕が思っている以上の苦労をしてきたはずです。









そして同じように、主将になった苦労も主将になった人にしか分からないと思います。

だから、限界になるまで誰にも言えなかった。

言っても意味がないと思った。

やることは変わらないし、やるしかないと分かっていたから。



僕は

3年生の頃、1年生の頃からずっと近くにいた丈太郎さんが、4年になってなぜあんなに苦しんでいたのかは分からなかった。

2年の頃も、大和さんの気持ちは分からなかった。

1年生の頃なんか、考えもしなかった。



そういうものなんでしょう。

でも今なら少し、ほんの少しだけ分かるかもしれない。










何度も押しつぶされそうになった。

学生主体を謳うこの部活で自分たちで道を切り開いていかなくちゃいけない。

週に何回もあるミーティングも全力でやらなきゃいけない。

後輩達に道を示さなくてはいけない。

どんなに不安でも、自分だけはブレちゃいけない。













全治半年の怪我も経験しました。
















何度も、何度も挫けそうになった。

もしかしたら一度折れてしまった時もあったかもしれない。











授業も部活も何もかも放り出して、何者にもなりたくない。

携帯の電源を切って一切の連絡を無視したい。

何も考えたくない。

ただ、好きなことだけしていたい。

無心でバスケコートでシュートし続けた日もありました。

他部活の主将と熱い話をしたことも。

















部員、特に後輩には絶対に見せないようにしてきました。













それでも一度だけ、同期の前で涙を流したこともありました。














本当に苦しかった。

結果で引っ張らなくちゃいけないのに、12月からベストが出ない。リレーでは足を引っ張る。

情けない。













悔しかった。

















ベストが出なかったあの2年間よりも遥かに。

チームのために。

そう分かっているからこそ、自分の無力さが痛烈に心を締め付ける。

















怒涛の一年でした。






















それでも、僕は主将になったことを後悔したことは一瞬たりともありません。

キツかったけど、その分やりがいもあった。

何より誇りだったし、チームのことが好きだったから。

この1年があったから、今の僕がある。

そう胸を張って言えます。















監督

主将になって初めて2人でご飯に連れて行っていただいた日。遠くに感じるようで、昨日のことのようにも思えます。

あの日、監督に言われたこと、それだけは守り通しました。

僕が限界だった時、仕事終わりなのに、3.4時間もご飯食べながら話を聞いてくださったこと。

本当に、本当に感謝しています。

ありがとうございました。

引退してもご飯行きたいです。


ケンゴさん

僕がまだ高校2年生の時、割り箸を使った足踏みドライが初めて教わったドライでした。

あれから6年経つんですね。

本当にお世話になりました。

ドライ以外にも考え方、人との接し方、尊敬できる人生の先輩でした。

ありがとうございました。


先輩方

僕ももう、引退です。

教育。

この言葉は、下級生の頃の自分には恐怖の象徴でした。

当時は厳しいなぁ、、、。と生意気にも思っていました。今は、本当に感謝しています。

たまに練習に顔を見せてくださった時、何を話せばいいか分からなかったけど、きてくれたという事実だけでめっちゃ嬉しかったです。

今の僕があるのは先輩たちのおかげです。

今、僕は僕の憧れたカッコいい先輩方に、僕は見えているのでしょうか。

残り4日、最後まで気を引き締めて引退します!


東木さん

ナオ、まぁまぁ速いじゃん

アメリカから急に変な時間に来るこのラインが嬉しかったです。水泳を好きになったのは東木さんのおかげかもしれません。少なくても、大学でも水泳をやると決意したのは東木さんと話してからでした。

二人三脚。

この言葉が一番しっかりくるのが東木さんとのあの3年間でした。荻野、川西、友田、大藤、大川、この6人で練習していたあの時がたまらなく恋しくなる時がありました。

僕の青春です。

東木さんに会えてよかった。

恩師です。

最後やりきってきます。


帰国したら溜まりに溜まったお金を僕のために使ってください。


後輩たち

言いたいことが一番ある。死ぬほど。めちゃくちゃ。

でも、文字にはなんかしたくない。

だからレセプションのスピーチで全部話す。

心して聞きなさい。

一言だけ。

最後4日間、頑張ろう。



同期

もういうことないくらい全部言いたいこと言ってきた。

でも改めて、ありがとう。

マジで感謝してる。

俺1人だったら絶対無理だったし、このメンバーじゃなきゃ乗り越えられなかった苦労がたくさんあった。

もう最後。

笑って引退しよ。

ありがとう。


両親

本当に今までありがとうございました。

明日、家を出て、帰ってきたらもう自分は水泳選手じゃないんだと思うとめっちゃ寂しい。

15年間以上。

ずっと支えてきてくれた。

感謝してもしきれないです。

インカレは僕の全てをぶつけてきます。
















色んな人に支えてもらい続けてなんとか、ここまで辿り着けました。
















だからこそ心の底から恩返ししたいと思っています。

最後こそは。

絶対に。

笑ってハイタッチしたい。 


















明日からのインカレは僕の全てを懸けます。

泣いても笑ってもこれが最後。

















水泳を通して出会えた人。

水泳を通して得た価値観。

水泳を通して成長できた人間性。

水泳を通して経験できた輝かしい思い出達。


















全てに感謝を。

















本当に水泳をやっていて良かった。

最後のチームがこの慶應義塾大学水泳部競泳部門でよかった。
















水泳が大好きです。




















ありがとうございました。


主将 藤永直透





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