恋生の落語原典講読 その2「権助魚」~古くて新しい「古典」落語 | 慶應義塾大学公認学生団体落語研究会公式ブログ ―慶應落研日記―

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 皆さん、こんにちは。十五代目恋生です。4月から「落語原典講読」と題して落語の演目などに関するお話をいたしております。半年後の更新となり、申し訳ございませんでした。第2回のテーマは、「古くて新しい『古典』落語」です。
 いわゆる「古典落語」は江戸時代や明治・大正時代(おおよそ1923年(大正12年)の関東大震災前と)に原型が作られました。しかし、時代に応じて演出を自在に変化させていくのも、大衆芸能としての落語の特色の一つです。ですから、こんにち「古典落語」に分類されている演目でも、現行の演出やサゲが形成されたのは現代である、という例も少なくありません。今回はそんな演目の中から、現在寄席や落語会、さらには学生落語などにおいても盛んに演じられている「権助魚(ごんすけざかな)」を取り上げたいと思います。

1.現在の『権助魚』
 「権助魚」は、あるお(たな(商売を営んでいる家のこと)の旦那(めかけ、つまり愛人がいる)、おかみさん、下男の権助ごんすけの三人の人間模様をコミカルに描くはなしです。あらすじを延広真治氏編、二村文人氏・中込重明氏共著『落語の鑑賞201』より引用します。

 

亭主の浮気を勘ぐるおかみさんに、旦那の後をつけるように言われた権助。しかし早速、旦那にその目論見は見破られる。そして、旦那から金を貰う。これは、おかみさんからもらった額よりも多いので、権助は簡単に寝返ってしまい、旦那の入れ知恵で、お得意さんと網打ちに行ったことにするため、魚屋に行く。そこで、網でとれる魚を所望して、たくさん魚を買う。店に帰って旦那が網打ちに行ったと説明し、魚を見せるが、はなから信じてもらえない。何しろ、出かけてから二十分しか経っていなかった。それでも、何とか言い逃れようとするが、北海道でしかとれないようなものをも買ってくるやら、蒲鉾かまぼこや目刺しまでもあったので、「こんなものが関東一円で採れますか」、「いいや旦那から十円もらってやった」。


 夫の浮気と妻の嫉妬に振り回される権助の姿がおかしみを生みます。この噺とよく似た噺に「権助提灯」という噺がありますが、この噺では旦那と権助がペアで本妻・妾との攻防を繰り広げます。一方、「権助魚」は途中で旦那は姿を消すため、ストーリーを通して登場し続けるのは権助です。その意味では、「権助魚」の方がより権助の行為に焦点が当っていると言えるでしょう。

2.『熊野の牛王』
 では、「権助魚」の系譜はどこまでさかのぼれるのでしょうか。まず、落語研究書の一大権威、東大落語会編『増補 落語事典(改訂新版)』(青蛙房、1994年)で「権助魚」を探してみると、「権助魚」という演題の項はなく、「権助魚」は「熊野(くまの)牛王(ごおう)」の別題として載っていることが分かります。では、その「熊野の牛王」とはどんな噺なのか、以下に『増補 落語事典』から引用します。

 旦那が妾を囲っているらしいと感づいた女房が、権助に五十銭やって、旦那のお供をして行ったとき行き先を見とどけて来いと頼む。権助は翌日旦那の供をして出かけたが、旦那に女房に頼まれたことを見ぬかれてしまう。旦那は権助に一円やって「旦那は両国で田中さんに会って、一緒に網を打ちに行った。それから植半(引用者注・江戸・明治期に現在の墨田区向島にあった料理屋)で芸者をあげて、吉原に行ったが、私は植半から戻ってきましたと、帰りに魚屋で網でとれたような魚を少し買って帰って女房にいえ」という。権助は魚屋で伊勢エビ干物に、メザシを買ったので、女房にすぐ見破られて、苦しまぎれに「ああ腹が痛い」女房は薬を飲ませたあと「今飲んだのは熊野の牛王だよ。うそをつくと血を吐いて死ぬよ」とおどかすと、権助はいっさいを白状してしまう。「今おまえが飲んだのは、薬の能書のうがきを破いて丸めたんだよ」「道理で能書をしゃべっちまった」


 権助が仮病の腹痛を訴え薬を飲まされるという展開は『権助魚』に見られませんが、おかみさん(女房)に見破られるまでの筋は現行の『権助魚』とほぼ完全に一致することから、『熊野の牛王』は現行の『権助魚』の古態こたいを留めるものと想定できます。

3.「熊野の牛王」とは何か
 最初に気になるのは、「熊野の牛王」とは一体何なのか、ということですね。「牛王」とは、熊野三社(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が発行する護符ごふ(神仏の力のこもったお札のこと。身に着けていると厄除けになる)のことです。熊野の神使しんしである烏が七十五羽描かれています。熊野の神は妄語もうご(嘘をつくこと)の罪を責めるとされていたため、中世・近世においては、誓約書である「起請文きしょうもん」を書く用紙としても用いられました。起請文は、遊女と客との間で取り交わされることが多く、落語「三枚起請(さんまいぎしょう)」にも取り上げられています。
 また、「能書(のうがき)」も、現代ではあまり馴染みのない言葉ですね。「能書」は、①薬などの効能を書き記した、いわば効能書のこと。さらに、②自分の優れた点や事情などを述べ立てる意にも用いられました。薬の能書は①の意味、サゲの「道理で能書をしゃべっちまった」の「能書」は②の意味です。
 以上のことを踏まえれば、「熊野の牛王」の後半部の展開もお分かりいただけると思います。逆に言えば、「熊野の牛王」はこのような前提知識が無いと理解が難しいということですね。「権助魚」を形成するにあたり、牛王の件が省かれたのも、時代に合わせた演出の改良策であったわけです。

4.『権助魚』の形成
 ではその『熊野の牛王』はどのように形成されたのかといいますと、『お文様ふみさま』(別題『万両まんりょう』、上方では『お文さん』)という噺の前半部が独立したものとされています。「お文様」のあらすじはここでは示しませんが、確かに、二代目三遊亭小円朝の速記(『文芸倶楽部』第13巻第6号、明治40年4月15日発行、博文館)を確認すると、女房が権助に旦那の跡を付けさせ、権助が旦那に魚を買って帰るように命じられ、女房の怒りを買うという前半部は、「権助魚」や「熊野の牛王」と非常に似ています。しかし、後半部は「権助魚」や「熊野の牛王」とは似ていません。なお、「お文様」とは、のことです。
 「権助魚」の形成過程がいかなるものであったのか、明確にはし難いですが、ある程度推論することはできます。古いところでは、『百花園』第19号(1890(明治23)年2月5日発行、金蘭社)と第20号(1890(明治23)年2月20日発行、同)に「おふみ」の題で二代目古今亭今輔による速記が掲載されています。前述の通り『文芸倶楽部』には二代目三遊亭小円朝による「お文様」の速記が載り、両者を比較すると、似た演題にも関わらず、「おふみ」には「お文様」に関する筋が一切無く、「熊野の牛王」や「権助魚」に近い筋になっていることが分かります。つまり、明治20年代頃までには、「お文様」からの独立は行われていたと考えられるでしょう。

 「お文様」はやや長い噺であり、筋も複雑なので、そこから権助と女房のやりとりが一席物として独立したのも、自然な流れといえます。興味深いのは、二代目今輔の「おふみ」では熊野の牛王すら登場せず、女房が権助に対し、「こんなものが両国の川で獲れたわけがない」と責める場面で噺が終わっていることです。「熊野の牛王」よりも簡潔な展開で、「熊野の牛王」よりもむしろ現行の「権助魚」に近いといえます。明治後期・大正期に護符文化を取り入れて「熊野の牛王」が形成されたのか、それともそれ以前から今輔系統とは別に「熊野の牛王」が成立していたかは不明です。ただ、1929(昭和4)年に騒人社から刊行された『名作落語全集』第二巻に、五代目三遊亭圓生(1884〜1940)による、「熊野の牛王」のいわば完成形が載っていることから、昭和初期には「熊野の牛王」として定着していたことがうかがえます。また、『増補 落語事典』の解説によると、7代目春風亭小柳枝(1921〜1962)は「権助魚」と題して「熊野の牛王」を演じていたといいます。
 上述の1929(昭和4)年以降出版された書籍類を確認しても、「熊野の牛王」の題で載っている場合が多く(例えば今村信雄『落語事典』(青蛙房、1957年)など)、前述の通り1973年発行の『増補 落語事典』にも「熊野の牛王」として立項されています。しかし、1980年代以降になると、現行の「権助魚」として口演されることが多くなります。例えば、「文化デジタルライブラリー」(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/)で確認できる、国立演芸場での「権助魚」の口演記録を見ると、1980年代9回、1990年代7回、2000年代8回、2010年代11回、というように、1980年代以降、「権助魚」が安定的な口演頻度を有しているのです。全く推測の域を出ませんが、現行の「権助魚」の演出が形成されたのは、1960年代〜1970年代あたりの時期ではないかと個人的には思っています。その型が1980年代以降に広まったのではないでしょうか。なお、1980年代の口演記録等を見ると、「熊野の牛王」の題が見えることもあり、「熊野の牛王」としても引き続き口演されていたようです。
 成立時期については、五街道雲助師(1948〜)のホームページ(https://www.asahi-net.or.jp/~cq1t-wkby/index.html)に、「権助魚」に関して以下のような記述があることも、一つの傍証になるのではないでしょうか。

ここ十年くらいの間に急に流行り出した噺です。あたしが前座二つ目時代にはほとんど聞いたことがありません。先代の小勝師匠あたりが時々やっていたくらいでしょうか。噺にも結構流行り廃りのあるものです。


雲助師のホームページ設立の時期(1998年)を鑑みると、この記述は2000年代頃に書かれたと思われますから、「ここ十年くらい」というのは1980年代〜90年代のことと想定できます。
 2000年代以降では、さらに盛んに演じられるようになります。長井好弘氏の調査によれば、2002年に全ての定席(※1)を対象に行った演目別口演数ランキングで「権助魚」は第16位(282回)、2001年〜2007年公演分の新宿末広亭を対象に行った同様のランキングでは第17位(520回)にランクインしています。50年前には珍しい噺だった「熊野の牛王」は、普遍的で共感性の高い筋へと磨き抜かれたことで、こんにちでは毎日どこかの寄席や落語会で聴くことのできる定番ネタ「権助魚」へと変貌したのです。
 以上のように考えてみると、通常「古典」落語とされている「権助魚」も、現行の演出が定着してから50年も経たないくらいの、「新しい」噺でもあることが分かりますね。

5.大衆芸能としての落語
 落語は伝統芸能であると同時に大衆芸能である以上、その演出は同時代の聴衆に容易に受容されうるものでなければならないという宿命を負っています。「お文様」、「熊野の牛王」から「権助魚」へと変容していった流れは、そのことを如実に物語っています。時にはいわゆる「伝統」という価値観とせめぎ合い、一見すれば相反する二つの要素を両立しながら、落語は現代に息づく伝統芸能となりえているのです。

※1 定席:常設の寄席のこと。東京には、鈴本演芸場(上野)、新宿末広亭(新宿)、浅草演芸ホール(浅草)、池袋演芸場(池袋)の4軒がある。

【参考文献】
○延広真治編、二村文人・中込重明著『落語の鑑賞201』(新書館、2002年)
○東大落語会編『増補 落語事典(改訂新版)』(青蛙房、1994年)
○瀧口雅仁『古典・新作落語事典』(丸善出版、2016年)
○『名作落語全集』第2巻(騒人社書局、1929年)
○延広真治・山本進・川添裕編『落語の世界1 落語の愉しみ』(岩波書店、2003年)
○長井好弘『新宿末広亭のネタ帳』(アスペクト、2008年)
○宇井無愁「落語の民俗学㈠・㈡ 熊野牛王考①・②」『上方芸能』第100・101号(1989年4月・7月)

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