こんにちは、準硬随一の愛彼女家の藤井響人(経4 鎌倉学園)から紹介された4年内野手の野沢俊貴(経PEARL4 Frankfurt International School)です。

響人は個性あふれる今の4年生の中では、まだ常識的な考えを持っている方なので喋っていると本当に安心します。時に喋りが止まらなくなったり、怒りスイッチが突然入ってしまったりする点はありますが、基本的には頭がきれるし、後輩からの信頼も熱く、頼れる奴です。
そんな彼とは、1年生の時に多くの時間を共にしたものです。肉離れする瞬間を目の前で見たことから始まり、毎日のように相浦(商4 柏陽)と3人でぎょしんで海鮮丼を食べ、メンバー外としての公式戦観戦、そして宮古島旅行。彼は本当に突然トップチームからお呼びがかかり、リーグ戦デビューをしたものですから、隣に彼がいないスタンドは寂しく感じたのを覚えています。

上級生になると、彼は就活お兄さん、スタントンニキ、準硬随一の愛彼女家、モジャパーマとなるなど、カメレオンばりに多くの面を見せており、話題を絶えさせない男です。おまけに、「引退したい」なんて呟きながら、最近は打席で新ルーティンを披露し、「え、え、おおー!」なんてスタンドを沸かせています。
引退なんてすぐ来るんだから、この瞬間を噛み締めて最後まで熱く野球を楽しもうや。

さて、とうとう私にも回ってきました慶應JBB名物のラストブログです。私も過去の先輩や同期のような、読み手の心を打つようなブログを書きたいのですが、「結果」に関して何も残せていません。対立教大学戦を観戦中に、最近色々言ってくる小池くん(文4 慶應義塾湘南藤沢)に「野沢ってラストブログで書くことなくね?」なんて言われてしまう始末です。

ただまあ、今後自分が書いた文章を人に読んでもらう機会なんてないでしょうから、学生生活の集大成の1つとして本音で色々書いていこうと思います。変なことを書くかもしれません、ご了承ください。
第二言語のため、拙い文章にはなりますが、最後まで付き合っていただければ幸いです。
あ、リクローくん(笹谷陸朗さん・2024年卒)「としきのブログキモすぎだろ」とかいうLINEを送ってくるのはやめましょう。

構成は
・自分史
・それっぽい話
・メッセージ
となります。

(自分史)
チャーミングなお腹をポコリと出しながら部室で着替えているやっさん(保岡大輝・経3 慶應義塾)に「ラストブログの自分史って必要かな?」とふと聞いたら「まあ基本読まないですよね」と返されたので、書くか迷いました。興味がある方のみ読んでくださいね!


ドイツ時代
私が野球を始めたのは6歳の時です。とはいえ、チームに所属するのではなく、土日に父親と3つ上の兄と近所の公園で、テニスラケットとテニスボールで「野球っぽい何か」をしていました。 
野球だけに熱中していた訳ではなく、学校で友人と昼休みにしていたサッカー、謎にセンスを発揮していた剣道の方に力を入れていました。余談ですが、私は小学2年生でドイツの剣道全国大会で3位になるのほどの実力の持ち主でした。(参加人数は7名)


アメリカ時代
小学2年生の頃にアメリカ、インディアナ州、小学4年生でイリノイ州に引っ越します。様々なスポーツをしましたが、最終的には吹奏楽部(楽器はトランペット)と硬式野球チーム所属という意味不明な二刀流に落ち着きます。平日は学校から帰宅すると、美しいトランペットの音色を家で吹き鳴らし、その後に野球の個人練習、それが終わると近所のインド人とケイドロという、インドアなのかアウトドアなのか、よく分からない生活でした。土日は父親とティーバッティング、ピッチング練習を継続し、こうした練習の成果もあり、所属していたチームではエースとして活躍します。


ドイツ時代(2度目)
中学2年生の時に再度ドイツに引っ越し、高校3年生までを過ごします。Main Taunus Hofheim Redwingsという小さな街の球団に入団し、内野手兼抑えとして活躍していました。最近レベルは格段に上がっていますが、ドイツは野球後進国であり、環境は決して恵まれていませんでした。

練習は週2回、2時間30分。たんぽぽが咲いている荒れたグラウンド、野球場ではなくサッカー場を使って行われる公式戦、バイクで練習に駆けつけてGパンのまま練習に参加する強肩強打の4番打者、マウンドには40代ぐらいのビール腹のおっさんが立っていたり、参加するチームが足りなくてリーグ戦が全てお休みになったりすることもありました。オフの日には、チーム総出で0から手作りの木製ダグアウトを作り、球団の資金難を解決するために近所でドーナツを売るなど、まあカオスな感じでしたね。

そんな環境を楽しみつつ、個人としてはデビュー3試合目で推定飛距離50メートルほどの柵越えホームランを2打席連続で放ち、レギュラーに定着。「お前のスイングスピードはこの国では速すぎる!」と絶賛された打棒と「ジャパニーズサムライがいるぞ!」「まるで踊っているようだ!」と称された内野守備で主力として活躍し、新人王を獲得。この時は野球が楽しかったですね〜。

チームとしても地区予選で2勝し、ドイツで野球をする人なら誰しもが目指すレーゲンスブルグで行われる全国大会に2年連続で出場。高校3年生の大会では3回戦で強豪Mainz Athleticsを中盤まで追い込むも、自分の最低なピッチングにより、終盤に逆転を許し、サヨナラ負け。外野に消えていく決勝打、味方の捕手が膝から崩れ落ちる姿は今でも脳裏に焼きついています。試合後に今まで野球生活を支えてくれた両親の顔を見て号泣。大会後、「日本の大学野球で自分が通用するわけがない、もう野球はできないな」と思いました。

仕事が忙しい上に、野球経験があまり無いのに毎週練習の相手をしてくれた父親、練習場まで車で送り迎え、チームの活動にも積極的に参加してくれた母親には本当に感謝ですね。両親はガチ偉大なり。


Japanese Baseball
2020年10月に経済学部PEARLという経済学の授業を全て英語で学ぶ、グローバル精神と高度な英語力を持つ選ばれし100人の猛者のみが入れる学部に入学。フルオンラインで、華やかな大学生活とはかけ離れた日々を過ごす中で、「自分の野球の実力って日本でどれぐらい通用するんだろう?」、野球はもう辞めたと思っていたのに、海外にいた頃から常に持ち続けていた想いが、日々強くなっていました。

大学を卒業した後、社会人野球や独立リーグへの入団を考えるか?いやいや絶対無いな。確実にサラリーマンやるな。てことは、自分の実力を本気で試せるのは大学で最後じゃん。
みたいな感じで、準硬式野球部の新歓担当の方に連絡して。。。ではなく硬式野球部の入部試験を受験します。

試験当日、集合時間が近くなると学ラン、制服姿の学生が続々と集まってきました。一方で、私はチェック柄のシャツ、青いジーパン、黄色いスニーカー。この時点で不合格は確定していたでしょう。

グラウンドでは、参加者が全員が上下ユニフォームで現れる中、私は早稲田大学色のキャップ、黒い短パン、OAKLEYのウェアで登場し、まあバカみたいに浮いていました。ちなみに河村くん(経2 慶應義塾湘南藤沢)は茶髪で参加していたそうです。やっぱり帰国子女ってどっかネジ飛んでいる奴が多いんですよね。練習が始まると、周りの選手に「シートノックってどうやるんですか?」「とんぼってどうやって使うんですか?」等と聞き周り、非常にヤバい奴でした。ちなみに、このトライアウトを怪我のため見学していたのがMニキ(村田将太郎・経4 慶應義塾湘南藤沢)で、「やけに背の高い奴がいるな」と思ったのが土屋(経4 栄光学園)、そしてトンボの使い方を僕に聞かれて対応に困っていたのがアイタン(相浦光)です。

結果はもちろん不合格。そこからしばらく、フラフラしていましたが、「日本の野球で勝負したい」という気持ちは消えず、準硬式野球部の門を叩きます。

育って成れない4年間                             
晴れて慶應JBBの一員となりますが、入部数週間で私がドイツ、アメリカで培った自信は日吉台グラウンドでものの見事に木っ端微塵にされ、育成チームからのスタートとなります。

(1年生)
少しでも周りとの差を埋めようと必死でした。一部練習では、前日に終電で帰ろうと、当日に始発で帰ろうと、7時には部室に行き、森江さん(1992年卒)のノックをみっちり受けてから、全体練習に参加。二部練習では、トップチームの選手よりも早くグラウンドに到着、森江ノック受けて、終わったら育成チームの練習時間まで室内練習場に篭り「あーでもない、こーでもない」なんて首傾げながら置きティーしてました。
オフの日に遊ぶ、休むなんて考え方は一切なく、何かに取り憑かれたようにグラウンドに向かう日々。この頃からですかね、母親の常套句が「明日も森江ノック?」となったのは。量を確保するだけでなく、内野守備の極意を水澤さん(2022年卒)、服部さん(2022年卒)、ノリさん(魚崎仁潔さん・2023年卒)、歩貴さん(中村歩貴さん ・2023年卒)、バッティングについてを石見さん(2022年卒)、マサさん(伊藤正貴さん・2023年卒)に聞きまくり、自主練習で行うドリルを日々アップデートさせていきました。
そうした努力も実らず、11月の関西遠征で与えられた打席は1打席。アイタン(相浦光)とグリコポーズして、響人(藤井響人)とシンペイ(三宅晋平・経4 専修大学松戸)と立ち食いそばを食べた記憶しかありません。1年生の頃はトップチームには1回も帯同できず、上級生となります。

(2、3年生)
育成チームでも地位を確立できずに、当然のように試合に出れない、トップチームに上がれない苦しさは、学年が上がるにつれて増していきます。下級生の頃は「俺って野球下手だなぁ、まだまだ頑張らなきゃ」なんて思う程度だったのに、学年が上がり、トップチームで同期が活躍し始め、入部3日目の北田(法3 慶應義塾志木)が自分よりも多く打席数もらった実戦練習あたりから、いよいよヤバいと焦り始めます。
2年生の秋では、既に吉野(経4 慶應義塾)、西山(政4 鎌倉学園)、遼平(佐藤遼平・商4 桐朋)、山賀(理4 都立昭和)、岡見(政4 慶應義塾湘南藤沢)、優太(長谷川優太・経4 慶應義塾)が公式戦に主力として出場し、3年生の秋頃には常にB戦で共に戦っていたニキ(村田将太郎)、柿野(法4 慶應義塾)、大志(佐藤大志・文4 獨協埼玉)、髙尾(経4 慶應義塾志木)、片田(商4 都立富士)、岡根(商4 松阪)、坂本(法4 桐蔭学園)、井川(商4 穎明館)、おぎゃん(小川凌汰・法4 桐蔭学園)が次々とトップチームに上がり、リーグ戦デビューを果たしても、自分の立ち位置は変わらない。育成チームでの実戦にも参加させてもらえないことや、同期の中で自分だけフリーの班に入っていなかったり、ゲームノックで新人戦側のチームに入れられたりと、置かれている状況が本当に笑えなくなり、野球がストレスとなっていきました。

それでも、練習日も、オフ日も、可能な限り野球へ時間を投資をするということを辞めませんでした。練習前はガイさん(三宅凱翔さん・2024年卒)、阿部ちゃん(2024年卒)、ロキ(轟快斗・法3 桐蔭学園)、中野さん(2024年卒)、柿野と森江ノックを受け、練習後は太陽(藤井太陽さん・2024年卒)、リクロー(笹谷陸朗さん)と室内練習に励み、そのままベンダーに行くことを習慣としていました。あ、太一(長谷川太一さん・2024年卒)はいつも即帰でした。大谷さん(2024年卒)の勧めで毎日寝る前に餅を3個平らげ、坂本に昼食後のマクドナルドに付き合ってもらい、自宅付近のジムで筋トレに励み体重を8キロ増やしました。

正直モチベーションもクソもない日の方が圧倒的に多かった時期でしたが、いつも朝早く部室2階を開ければ、バナナを頬張る愛想のないガイさん(三宅凱翔さん)、対照的に和かに挨拶をしてくれる中野さん、その後テンション低めで入ってくるイヤホンをした阿部ちゃん、まだ顔が起きていない柿野がいて、1階を覗けば、奥の方で着替えて「ちょっと待ってください、一緒に行きましょ」と言ってくるロキ(轟快斗)。そんな光景があったからこそ、腐らずグラウンドに通えていた気がします。

プロ野球選手の守備動画を見まくって1歩目の切り方、守備の構えを改善して、アホほどノックを受けました。打撃にしても、ラインの入れ方、打席での意識を、遼平(佐藤遼平)、山賀に聞いて、理想のスイングを追い求めました。準備も怠らず、午後から始まる育成チームの伊勢原での実戦の前に意気込んで朝からリクローと室内でCRFして、準備万全で挑んだこともありました。しっかりお互い、ノーヒットだった気がします。その後、当時付き合ってた彼女に駅まで迎えにきてもらい。。すいません、話が逸れました。

でも、結果は出なかったですね。練習試合では相変わらず絶望的な守備を披露して頭は真っ白、バッティングも散々。三塁前二塁打というありえない記録を献上したり、4年生の先輩の感動ムード溢れる引退登板でファンブルして、えげつない雰囲気にしたこともあります。

エラーした後「周りを見ろ」と諭してくれた広樹(小川広樹・商3 慶應義塾)、いつも真っ先に「としき、大丈夫か?」と駆け寄ってきてくれた阿部ちゃん、「適当にやるぐらいでいいじゃん」と言っていただいた森江さん、必死にフォローしていただいたのに死んだ顔して、不貞腐れた態度をとっていました、申し訳ありません。
いつかの育成チームのフリーの対戦で追い込まれてから際どいボールを見逃して、キャッチャーをしていた井上(井上侑亮・法3 都立西)が「え。。。あ。。。入ってね。。。」なんて気を遣われながらストライクコールをされた時は、「俺ってとんでもねぇ老害だな」って痛感して、泣いてしまったのを覚えています。彼には全く悪気が無かったと思ってるのですが、何故か今でもはっきり覚えています。それだけ、「上級生でトップチームの経験無し」という立場に圧倒的劣等感を感じていたのでしょう。

上達のために練習をしていたのは事実ですが、何もかもが上手く行かなさすぎて「下手な奴」じゃなくて「練習する下手な奴」の方が周りからの見られ方はマシだと思って、どこか自己防衛のためにやっていた期間もあったように思います。

偉大なる中野主将率いるチームの劇的な春季リーグ戦優勝、全日本選手権大会での熱すぎる試合の数々、これらの期間は、出場できない悔しさというよりかは、そこに参加するためのボーダーラインにも立てていない虚しさにいつも圧倒されていました。法政大学多摩グラウンドで試合前に、ローソンでリクロー君とウキウキでスナック菓子を買って持っていったら、試合前アップ中の山賀に「ピクニックか笑」なんて言われた時は、本当に終わりかと思いましたね笑。


(4年生)
一瞬でした。希望していたオーストラリア遠征に自分だけ行けず、関西学院大学、神戸大学の方々に向かってスピーチをし、関西遠征4連敗という歴史的記録を代理主将として残して始まります。関東選手権大会前の春合宿では野球グラウンドで練習をさせてもらえずに、全面人工芝の素晴らしいサッカー場で育成チームの内野陣と基礎練習に励みました。
試合では守備において安定感をそれなりに見せるも、おぎゃん(小川凌汰)の守備力覚醒、辻井(政2 慶應義塾志木)の台頭により、トップチームにも上がれず、関東選手権大会、春季リーグ戦も一切縁がなく、Bチームで片桐(経3 岐阜)とスタメン争い。何もチームに戦力として貢献できず、気付けば全日本選手権大会が消え、いつのまにか秋季リーグ戦突入。
だらだらと部活生活を振り返ってしまいました。しかも、なんか暗くなっちゃいましたね。すみません。正直、春が終わった時点で9月に1人だけ引退しようかなって思ってました。
ご存知の方もいると思いますが、私は2020年9月に大学に入学しているので、本来であればこのブログが出る頃にはとっくに引退して、学部の単位を取り終えて、来年の3月までどっかしら海を超えて呑気にサングラスかけながら、チルい時間を過ごしていたでしょう。
でも、卒業を半年延ばして、わずかな可能性に掛けて4年生の秋季リーグ戦での出場を目指すために休学という選択を取りました。わざわざ両親に休学費を出してもらって、ゼミ+卒論の単位を犠牲にして(引退後三田キャンパスに通うことが確定)、社会人になる前の最後の自由時間を減らしてまでも、この部活を続けようと思ったんですよね。
「休学したから」と言って試合に出られるわけではありませんし、今の自分の現状は厳しいでしょう。
サードを狙うにしても将来性豊かな辻井、河村、守備力お化けのおぎゃん(小川凌汰)がいるし、右の代打枠を掴むにしてもその候補は溢れるほどいます。とはいえ、僕は「最後まで足掻いてやろう」と思っています。
引退あと数日にして、なぜこの思考に至っているかを、4年間なんとかやってこれた想いと共に、(それっぽい話)として、次の章では書いていこうと思います。

(それっぽい話)
成長とは「出会い」だ
入部したての1年生の頃と比べたら、本当に守備も打撃もこれでも成長したものです。安定とは程遠いですがね。それでも、「この成長ってどこから来たんだろう」と考えると、僕は数々の「出会い」だと思います。そして、今でもその「出会い」を求めているのです。
我々の部活って基本的に週5、6日で練習があるわけで、それが長期自主練習期間を除けば1年間続きます。当然みんな人間ですから、モチベーションには波があって、如何なる時もテンション爆上げの状態で「よっしゃ野球するぞーーー」って思う人ってあんまりいないと思います。昨日の夜遅くまで飲み会だった、バイトだった、志望度高い企業から落ちメールが来たとか、様々なことに「やる気」が影響されます。そうなると何かしら言い訳をして、「今日は練習、自主練習、朝練行かなくて良いかな」とか思ったりしちゃうと思います。
でも、完全にこれは僕の経験ベースですけど、例えば「めちゃ二日酔いで体バカみたいに辛いけど、とりあえず練習行ったろか」と思った日に限って、自分の成長の大きなきっかけとなる「出会い」があったりするんですよね。ここでの「出会い」っていうのは、自分の野球技術を劇的に向上させてくれる助言、感覚のことを指します。フリー中の一振り、ポジ別中の一球、キャッチボール中の一投、ふと練習している君の姿を見たチームメイト、コーチから言われる一言かもしれません。
具体的に僕の場合でいうと、打撃に関しては火曜日の2限の体育の授業のためにグラウンドに来ている服部さんに何気なく聞いて教わった「手の位置」のことです。まあ、他にも数えきれないぐらいあるのですが、代表的なのがこれです。
テクニカルな話をするつもりはありませんが、このアドバイスが圧倒的に自分の打撃を成長させたと思っています。これに出会った日の練習を何らかの都合で休みでもしてたら、僕は今でも「バッティング壊滅的マン」として苦しんでいたでしょう。
『ラブストーリーは突然に』by小田和正の「あの日、あの時、あの場所で君と出会えていなかったら」みたいな感じです。あの日「私が日吉台グラウンドには行かない」という選択をしていれば、グラウンドに来ていた服部さんに手の位置についてのアドバイスを受けることはできなかったわけです。
当然野球においての「出会い」っていうのは自宅でダラダラしていたら遭遇するわけはなくて、グラウンドで時間を過ごす方がその可能性は高まるでしょう。だからこそ、僕はオフであろうと、二部練習であろうと可能な限り朝早くグラウンドに向かい、ノックを受けて、ティーや室内練習場で打ったり、あまり喋ったことがない選手にもさりげなく野球のことを聞いたりして、自分の成長のきっかけを与えてくれる「出会い」を求めていました。
感覚的な話なので伝わってるか分かりませんが、まあ要するに、野球に囲まれる時間が長ければ長いほど、成長のきっかけを与えてくれるヒントに遭遇する確率が上がりますよってことです。だから、全体練習だけに甘んじずに、練習前、練習後の過ごし方も大事にしてください。
人生何があるかわかりません。明日何かあると思って、僕はグラウンドに向かいます。
モチベーションが低かったり、朝眠い、練習行きたくねぇなとやる気が湧かなかったりしても「まあ、なんかあんじゃね?」なんて思いながら重い体を日吉行きの電車に乗せてください。きっといいことがあります。
もちろん、体調が悪かったら無理せずコカコーラとウィダー買ってきて、安静にしましょう。

「あるべき姿」、「理想の姿」、「責任」の話
誰しもが入部してから描いていた「理想の姿」ってあると思います。そして、それを皆が叶えようと必死に努力するはずです。特に「準硬式野球」という選択をした人はより一層その気持ちが強いのではないでしょうか。僕だって同じですよ。入部当初は、慶應のユニフォームを身に纏い、リーグ戦、全日本選手権大会で試合を決める一打を放って、ベンチに向かって雄叫び上げて、スタンドが沸いて、みたいなのを思い描いていました。
でも現実はそう甘くはなく、僕は選手として理想とは常に掛け離れていました。まさか、トップチームにも上がれずに、育成チームで過ごして、B戦が主戦場の生活を送るなんて、入部時は想像もしていません。公式戦はスタンドで制服で観戦し、トップチームの選手が荷物を纏めているのを横目にフリーを打って、自分の名前は呼ばれるわけが無いからメンバー発表でドキドキもしない、本当に「理想の姿」とは真逆の4年間です。
入部したての1年生であれば、「まだこれからだ」と意気込んで、あまり気にならないかもしれませんが、特に育成チームの上級生は、このようにもがき苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。本当はグラウンドに立って最高に熱い瞬間を味わいたいはずなのに、自分の代わりにいるのは実力のある同期、後輩で、「俺はこんなはずじゃない」そう思っているでしょう。気持ちは痛いほどわかります、僕は4年間それを感じ続けたのですから。
でも、そうやって「理想の姿」とのギャップを感じているから、組織に所属する一員として「あるべき姿」を放棄していいのかっていう話です。「理想の姿」って簡単に手に入れることはできませんが、組織の1人としての「あるべき姿」って誰でも体現できるはずです。
「理想の姿」からは程遠い位置にいても、明日の行動によっては、そこに1ミリでも近づくことができます。育成チームであろうと、自分より実力のある後輩がいようと、B戦でもスタメンになれなくても、私生活、就活でどのようなことがあろうと、自分が目標としている公式戦出場に向けて、1人の部員として常に熱量絶やさずに、小さな努力を重ねていくのが、選手としての「あるべき姿」ではないでしょうか。
「学生スタッフが評価してくれない」「出場機会を与えてくれない」「育成チームだからorトップチームから落ちたから」「どうせ試合には出れないから」なんて不満を言って、この「あるべき姿」を放棄する選手が多いように思います。自分の立ち位置に一喜一憂しないで、この姿勢は誰しもが持って欲しいと思っているし、それが4年間、引退する日まで選手が全うすべき「責任」です。
本音を言えば、僕だって聖人でありませんので「打席少ねぇ」「もうちょい出させろや」「学生スタッフ何見てんだ」「野球やめたろか」なんて内心思ってたりします。早慶戦前の実戦で与えられた打席は後半の2打席のみ、ホワイトボードを見た瞬間リアルに「帰ろうか」と思いました。でも、そんなことはグッと心に留めて、行動し続けた自負はあります。
僕は4年生の秋にしてトップチーム帯同ゼロ、公式戦出場ゼロ、育成チームのフリーの対戦にも入れてもらえないことがある、フレッシュな同じポジションの1年生に実力が既に超されている、そんなクアトロパンチを受けている状態です。対立教大学戦、対明治大学戦、対早稲田大学戦、対法政大学戦が終わりました。残すは対東京大学戦のカードのみです。試合出場の希望など微塵もなくても、そんなの知ったこっちゃありません。S&D昭島スタジアム、法政大学多摩グラウンドでカチ込む確率を少しでも上げるために、10月13日を迎えるまで最高の準備をするまでです。それが選手の責任です。
だから、全体練習前の森江さんと最近考案した膝突き捕球から始まる守備ドリル+ノック、最近メキメキと頼もしくなってきた3年生との室内練習も欠かせません。
「なんでそんなに頑張れるんですか?」なんて聞かれることがありますが、1つの答えとしては、「引退する日まで全力で公式戦出場を目指すのが選手としての責任」だと思っているからですね。


「胸張れるように行動しよう」っていう話
「5年後、10年後に今の自分を振り返った時に、胸を張れる決断をしたいんです。」
就職活動中に「野沢さんって、公式戦に出場した経験はないんですよね?それでも日々練習するモチベーションはなんですか?」みたいな質問を聞かれた時、決まってこう答えていました。面接用に用意したとかではなく、本音で答えていた数少ない質問の1つです。

部活を引退して、大学も卒業して、社会人になって、準硬のことをきっと誰かに聞かれるでしょう。
その時にみんなは何と答えるでしょうか?

僕だったら胸張って、躊躇せずに「腐らずに、最後まで自分ができることをやりました」って答えたいです。大学で体育会に入ってまで野球をしているのですから、「野球」っていうのは自分の人生を語る上では欠かせません。だから、野球のことを思い出す、問われる瞬間、これから山ほどあるでしょう。本気でやってきたからこそ、「ダサい」じゃなくて「かっこいい」思い出し方をしたいなって思います。

育成チームの4年生を見てみましょう。(9/28時点)
オウスケ(泉旺佑・文4 中津南)はまさしく馬車馬のようにCRFを投げています。本人にとってはフィジーカーになるべく、有酸素運動のつもりかもしれません。
大志(佐藤大志)はこの時期にトップチームから育成チームに落ちても負の感情を出さずに「行こうや!」って言って、スローモーションみたいな走り方で、投手のフィールディング練習を先導しています。
アイタン(相浦光)は引退まで1ヶ月を切ったというのに、肩に注射を打ったそうです。
坂本は今にも壊れそうな体を引きずりながら、アットホームな先輩でいてくれています。

育成チームではありませんが、あれだけのスーパースターの吉野だって、怪我で戦線離脱したことを一切出さずに、やかましいぐらいの声量でマシン入れをしています。

「老害」だと思われようと、最後までパッション絶やさず、やりましょう。

引退まで残り数日、彼らと同じように継続して「未来から見て誇らしい行動」をとっていきたいですね。



選手としてなかなか辛く、惨めに感じていた立場でも「野球を続ける」という選択肢をとり、グラウンドに通えているのは、上で述べた自分の考え方もありつつも、それ以上に素晴らしい同期、先輩、後輩という「人」の部分が大きかったです。

意味分からないぐらい練習するし、腐りそうな時も「絶対報われる」「お前が出る時は観に行く」なんて励ましの言葉を掛けてくれた先輩方。

「野沢さんが引退するまで、毎日一緒に朝頑張ります」「流石にリーグ戦で見たいっす」とか「最後一緒に出ましょう」なんて言ってくれて、共にバットを振ってくれる後輩達。

4年生の秋まで常に熱量を絶やさずに野球に取り組んできた同期。そして、誰よりも悔しさと責任を感じ、春から明らかに顔つきが変わった遼平(佐藤遼平)と広樹(小川広樹)を見れば、「まだまだ頑張れる」、そう思っています。

最初から最後まで、多くの人の言動に自分は救われてきました。本当にありがとうございました。