チームダイヤリーをご覧のみなさん、お久しぶりです。こんにちは。3年D F坂本峻太郎より紹介に預かりました、4年F Wの永田誉です。彼のダイアリーの最後の文章「ちゃんとバトンを繋いでください」というのはおそらく2年前のダイアリーで、下山田の紹介を無視したことを言われているのでしょう。(笑)気になる方は是非見てみてください。

坂本くんとは大学で出会い、当然ながら3年目の付き合いとなります。彼にとって初の大学の春合宿で初めて対面した際には「なんだこいつ、つまらなそう」と思ったことを鮮明に覚えています。しかしながら、彼持ち前の「いい具合の腐り方」は僕らの代と非常にマッチしており、よく一緒にいろんな愚痴をこぼしたものです。そんな彼も来年からは最上級生となります。腐ってるとは表現したものの、彼の根はすごく真面目で頭脳明晰な努力家です。彼の入学当初の体と今の体を比べればその努力は一目瞭然です。来年からはおそらく主務として、幹部としてチームを支えながら、ホッケーでも大黒柱としてD F陣を支えてきた現4年生の穴を埋めるような活躍を期待しています。(来年からじゃなくて、今年の残り数試合でも坂本くんと一緒に試合に出たいなぁと思ってます!誉さんはほんとに期待してるよ!!!)

 

まずは簡単に近況報告をさせていただきます。
弊部は11月23日に行われました、大東文化大学戦に辛くも勝利し、関東大学リーグ戦を6位という成績で終えました。個人的には、ホッケー人生初のP Sゴール含む3連続P Sゴールを決め、4年目にしてようやく結果を出してチームに貢献することができてホッとした気持ちです。チームとしては、リーグ戦中盤に主将の振津が戦線を離脱するなど苦境に立たされましたが、小嶋主将代行を筆頭にチームの結束を高め、目標には届きませんでしたが、なんとか2勝を挙げることができました。次は12月に4年生にとって集大成となるインカレが控えています。1つでも多く勝ち、このチームでまた勝利の喜びを味わえるよう、部員全員一致団結して取り組んでいきたいと思います。引き続き応援の程宜しくお願い致します。

 

冒頭の挨拶でお久しぶりですと書きましたが、チームダイアリーを書くのは実に2020年の3月以来およそ1年8ヶ月ぶりで若干19歳(当時2年生)の頃に投稿されました。そんな私も21歳となり、引退を間近に控えております。幼稚園生の頃からスケートを履き、小学校2年生の頃には現在の同期、栞大と一緒のチームでアイスホッケーを始めてから14年ほど経ちました。それから私にとって、家族にとってアイスホッケーはいつも何よりも優先で、アイスホッケーが生活の中心でした。来春からはアイスホッケーから離れた生活をするというのは少々実感が湧きません。引退を間近に控えた今、最後のダイアリーでは「母」について書こうと決めていました。過去3回のダイアリーでは順に兄(次男)、父、兄(長男)についての話を書きました。初めてダイアリーを書くときに4回あるのだから4人いる自分以外の家族のことを書こうと決めました。言ってしまえば他に対して書くこともないし、読んでくれた方に「永田誉」を紹介するのには「私の家族」の話をするのが一番手っ取り早いというのもありました。

 

 

さて、前置きが長くなりすぎました。そろそろ本題に入ろうと思います。

このダイアリーをご覧の皆さんは「1万日」と聞いて何年か思い浮かぶでしょうか。私はついこの前まで知りもしませんでした。先日、家族のL I N Eで2人いる兄の次男がもう一人の兄、長男に向けて「生誕一万日おめ」というメッセージを送りました。その後気になって調べてみると「1万日」とは、約27年と4.5ヶ月のようです。正直、この数字に対した意味はありません。ただ私の兄、永田家の長男が生まれ、母が「母」になり父が「父」になった日からそんな月日が経ったのかとそのメッセージを見て感じました。きっと母と父にとって親になってからの日々は楽しいだけではなくとても大変な日々だったと思います。特に3人の男を育てあげた母は今想像するととんでもないバイタリティの持ち主だなと感じます。次の3月に私が学生を卒業すると、「子育て」はひと段落だと思います。特にこれまで多くの時間と貴重なお金を費やしてくれた母には本当に感謝をしています。これからは自分のために時間を使って少しゆっくりしてほしいなというのが息子からの願いです。

 

 

私にとって母はいろんなものから守ってくれる「大きな傘」でした。

 

小さい頃は人見知りであったためによく母の後ろに隠れていました。小学生に上がってからも自分の気持ちを言葉にすることが苦手でよく母が代弁してくれていた気がします。

 

ホッケーを始めてからは平日休日関係なく仕事帰りだろうと早朝だろうといつも車で送り迎えをしてくれましたが、いつも私は助手席で座席を一番後ろまで倒して爆睡してました。

 

中学生ぐらいになるとついに「誉くん」が本性を表し、学校の蛍光灯を割って母に連絡が行ったこともありました。学校に行きたくないと言って午前中に病院に行くと言って午前中学校をサボっていたこともありました。

 

ホッケーでもなかなか上手くならずに活躍できす、それでもいつも一番に応援し期待してくれたのは母でした。

 

とても厳しいけれど気が利いてよく周りが見える優秀な長男という兄が、存在の9割はむかつくけれど困ったときには優しくなんでもできる次男がいることに劣等感を感じていたこともありました。そんな時も「誉らしくいればいい」といつも言ってくれました。

 

私が、高校に進学する際には私のために日光に一緒に移住してくれました。高校時代は特に試合に出られない期間が長く、母にとっても辛い日々だったと思います。それでも高校最後のインターハイ、国体で活躍できたのはあの時たくさんのサポートをしてくれた母のおかげです。

 

大学受験の際は私がもうダメかもしれないと弱音を吐いても母だけは「必ず受かる、絶対大丈夫」と言い続けていました。

 

大学に入ってからも会うたびに愚痴をこぼす私にいつも前向きな言葉をかけてくれたのは母でした。そして「ホッケーを辞める。」そんなことを口にした時、「辞めたいならやめればいい、どうなっても応援する、息子だから」そう笑顔で言った母のおかげで今、この三色旗のユニホームを着てスケートリンクに立っています。

 

 

私が生まれてから約22年間、母は私の失敗した時や挫折をした時など、本当に辛いときに助けてくれ、また大きな不安からいつも守ってくれました。きっと私が知らない苦労や苦悩もたくさんあったと思います。決してまっすぐではないし万人に好かれる人間ではないけれど、今こうして少しは大人になれたのは紛れもない母のおかげです。ありがとう。そしてこれからの人生、もう少し自立して、そしていつか私も誰かを守れるくらい「大きな傘」になろう、そう思っています。

 

 

最後に、私は口下手ですし恥ずかしがり屋で何もない日に母にありがとうと直接言える度胸はありません。ただ、悲しい現実として人はいつか必ず死んでしまう。そんなこともこの22年の人生で経験してきました。だからこそ、母が、親が、感謝するべき人が、生きている間に必ず感謝を伝えなければならない。そんなことに気づき私は、大学生になってから必ず家族の誕生日や母の日、父の日に簡単なプレゼントを渡すようにしました。(次男の誕生日はいつも忘れますが。嫌いなので。笑)簡単でいい、言葉だけでもいい、何を渡せばいいかわからないならお花屋さんに行けば店員さんが選んでくれる。離れて生活をしていても今はAmazonなんかで簡単にギフトが送れる。高くなくていい、安くても、一言でも、必ず感謝や気持ちを伝えるべきだとそう思います。

 

とても長い文章になりましたがここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 

次回のチームダイアリーの担当は、4年FW箭野駿太郎くんです。今、パソコンで名前を打つときに中々「箭野」という漢字が出てきませんでした。やのくん謝ってください。「駿太郎」も坂本の峻太郎をコピペしたら字が違うじゃないですか。ややこしいので統一してください。

やのくんとは、4年間同期としてやってきましたが、あまり話したことがないので未だに住んでいる下田寮で会うと気まずくなります。思い出といえば下級生の頃、合宿で僕の洗濯物を盗んだことぐらいです。その時はガチギレしました。

流石に紹介がこれだと可哀想なので最後に持ち上げておきます。距離感の読めなさアイスホッケー部No.1を誇るやのくんですが、彼のアイスホッケーに対するひたむきさ、がめつさは正直ひくほどすごいです。まじリスペクト。特に試合での自分の仕事をこなすという面でのプロフェッショナルさは同じチームメイトとして本当にありがたいです。塾高からホッケーを始めた人にとって、塾高からホッケーを始めた彼はきっと目標であり、憧れの存在なんだろうなぁと思います。それではやのくん、最後のダイアリー、距離感間違えんなよ!