流儀とか優しさとか | タマラ アクティベーター キョンの 『私を生きる!』

タマラ アクティベーター キョンの 『私を生きる!』

「タマラ」はあらゆる陽の素。
2002年にタマラを取り込める体となってから、目の前が色濃く、自分の輪郭がくっきりと変化してきました。
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誰でも望めば、アクティベーションを受けることができます。

タマラ アドバンストプラクティショナーのキョンです。

今日、ダンナと話している時に、
彼が言い出したことに、
私が反論すると、

彼は、
「もう、その話やめよう」

と一方的に話をぶった切った。
私は納得出来ず、
なんでなんで?!と言い募り、
話を続けようとしたのだが、

ダンナが不機嫌になるのが嫌で、
取り敢えずやめた。

まあ、その話題は、
時々、定期的に私たちの会話に上ってきて、
ダンナはいつも同じことを言って、
私はいつも同じ反論をするという、
なんとも出口のない問題についてなんである。

それは、自分たちがどうこう出来る問題でもないけれど、
私たちには関係することなので、
やっぱり気になっていること。

私は今でもそのことについてモヤモヤした気分があるんだが、
一体何にモヤっているのか?

話をぶった切られたことか?

それもある。
けど、多分、

それを突き詰めて話し合うことを、
したくない、というダンナに

不満、というか、、
なんか寂しいんだと思う。

私は私なりの意見を言ったんだから、
彼は彼なりにもっと反論して欲しかったと言うか、、

それ、ディベートやん?!

もしかしたら、
ダンナはそういう微妙な問題を、
自分たちから切り離して、
ディベートの材料にしようみたいな
私の空気を拒否したのかもしれないな。

私は、どんな微妙な問題でも、
テーブルの上に乗せて、
信頼できる人となら
一緒に解体して解決したいと思うところがある。

でも、ダンナは、
微妙さが「どこか」に触れると、
急変ってくらいに
急ブレーキかけたみたいに、
絶対にそれに触れようとしない。

私は私の流儀で生きてきたけれど、
ダンナもダンナの流儀で生きてきたんだよなー

考え方の違い

と言いつつ、
私は心のどこかで、
「私が正しい」と思っている多分笑笑

でも、それも、
対象によりけり。

私の流儀で、先送りせず、
今、解決!
ってのが向いてる問題もあるし、

いたずらに混ぜくったりせず、
触らないでいることで、
いつのまにか解決することもある。

あ、誤解のないように言えば、
ダンナもほとんどの問題については、
即解決主義だと思える。

今日だって、実家の両親のある問題を、
電光石火で解決してた。
電話を要所要所に何本か掛けて、
みんなの誤解を解いていた。

義母の笑顔が嬉しかった。

でも、ホント、まれにではあるけど、
そこは触れないで、的な問題があり、

私は地雷があるなら、
取り敢えず爆発させときたいとばかりに、
(だって、後で安全じゃないか)
切り込んでみたり。



娘が、友達に酷いことを言ってしまい、
絶交されてしまったんだそうだ。

私なんか、多分、
ダンナにどれくらいのことを
言ってしまっているのか、、

そんな風にも思えたが、
何度でもやり直しが出来ていて有難い。

思うに娘が友達に言ったことは、
その友達にとって、図星であり、
触れられたくないことだったんだろう。

私はそう言えば、
ダンナからそういうことをされたことがないかも。
でも、してるかも。

結論なんて無いけれど、
そういう日常が幸せだってことで、
強引に締めくくることにする。