Part②
〜母の話〜
母は近所では裕福な家庭に育ちました。
祖父母は生コン、ブロックの会社を経営し、名古屋市内に広い土地を持っていました。
母も私と同じ、4人兄弟の長女。女子短大を卒業後、家事手伝い、22歳で父と見合い結婚しました。
若い頃は美人でスラッとしていたので、地元の結婚式場の大きなパネル写真の花嫁モデルになったくらいです。
小学校1、2年の私の担任大久保まさこ先生から「桂子ちゃんのお母さんは女優さんみたいだね!」と何回も言われ、幼い頃は自慢の母でした。
ただ、4歳頃から「あれ?お母さん、なんで?」と違和感を感じ始めます。
今表現すれば、母とは心の交流が感じられなかったんですね。
弟に理不尽な事をされ、母親に泣き叫んで何十分訴えても、反応はありませんでした。洗濯物を背中見せたまま畳んでいるだけでした。
家事や字の書き方とか、当たり前に母親から教わる事も、躾けてもらった記憶が無いんですね。
文字や絵ははきょうだいで遊びながら習得していきました。年子4人いると、きょうだいだけでかなりの刺激や感化を受けていたと思います。その点、大変感謝しています。
母は私が台所に並んで手伝おうとすると、払い除けました。(最近一度聞いてみたら、自信が無かったそうです。え〜?!何それ!ですよね😅)
仕方ないので、なんでも一人で考えて、こっそり繰り返し練習して、本を読んで、身につけてきました。母親に躾けてもらえない、という自分が恥ずかしかったので、誰にも聞けませんでした。
私の一番のコンプレックスだと思います。
これは私の考えですが。
祖父は遊び好き。
頭がツルッとしてたのに、幼稚園からの帰りに祖父の会社へ遊びに寄ったら、髪の毛がフサフサになっていた時期がありました。若い愛人がいたんですね(笑)
その分、祖母は仕事が大好きでした。週数回遊びに寄っていましたが、いつ見ても仕事をしていました。
母も忙しい親の元、長女として小さなきょうだいの世話をし、親から教わる暇は無かったのでしょう。
周りは親の会社の従業員家族が住んでいてチヤホヤされるけれど、本音で向き合ってくれる人はあまりいなかったんじゃないかな。また、本音で人と付き合う機会も無いまま、結婚してすぐ4人年子の子育てが始まって。自分の子どもにも、心を開く事が上手にできないのかもしれません。
しかし、根っからの商売人の祖母に育てられた母の特技は貯蓄でした。趣味はケチです(笑)。
振り返ると、父も歯科医でしたから、友達には「桂子ちゃんところはお金持ち」といつも言われていましたが。
お小遣いは中2の終わりに始めて2千円もらうまではありませんでしたし。(クラスでアンケートを取って、お小遣いのない家庭がクラスに私と貧乏なら青山君のお家だけだった!と報告してから!)
下着は擦り切れるまで。洋服は叔母のお古をほぼ着ていました。
小6の冬は2枚しか無い上着を自分で手洗い。セーターの洗い方も自己流だから1、2日では乾かなくて。よく湿ったままのセーターを着て学校へ行っていました。
下はスカート1枚のみ。もちろん叔母のお下がり。
叔母は生まれつきホルモン異常で身長が140センチ無いくらいでした。私は小6で既に158センチを超えていたので、叔母のスカートの裾を解き、ギリギリまで伸ばして履いていました。
毎日履いていると裾が裂けてきます。そこをまた繕って卒業まで着続けました。中学で制服になった時の安堵感は忘れられません。
戦後の話ではありません。昭和50年代、高度成長期のお話です。明らかに友達と自分は扱われ方が違うな、と感じ始め、劣等感はむくむくと育ちました。
今は庭で野菜を育てるのが唯一の趣味である母。
あ、ケチの趣味も健在です。
健康でいてくれてありがとうございます。

以上とりあえず母の話。
Olive桂子
〜母の話〜
母は近所では裕福な家庭に育ちました。
祖父母は生コン、ブロックの会社を経営し、名古屋市内に広い土地を持っていました。
母も私と同じ、4人兄弟の長女。女子短大を卒業後、家事手伝い、22歳で父と見合い結婚しました。
若い頃は美人でスラッとしていたので、地元の結婚式場の大きなパネル写真の花嫁モデルになったくらいです。
小学校1、2年の私の担任大久保まさこ先生から「桂子ちゃんのお母さんは女優さんみたいだね!」と何回も言われ、幼い頃は自慢の母でした。
ただ、4歳頃から「あれ?お母さん、なんで?」と違和感を感じ始めます。
今表現すれば、母とは心の交流が感じられなかったんですね。
弟に理不尽な事をされ、母親に泣き叫んで何十分訴えても、反応はありませんでした。洗濯物を背中見せたまま畳んでいるだけでした。
家事や字の書き方とか、当たり前に母親から教わる事も、躾けてもらった記憶が無いんですね。
文字や絵ははきょうだいで遊びながら習得していきました。年子4人いると、きょうだいだけでかなりの刺激や感化を受けていたと思います。その点、大変感謝しています。
母は私が台所に並んで手伝おうとすると、払い除けました。(最近一度聞いてみたら、自信が無かったそうです。え〜?!何それ!ですよね😅)
仕方ないので、なんでも一人で考えて、こっそり繰り返し練習して、本を読んで、身につけてきました。母親に躾けてもらえない、という自分が恥ずかしかったので、誰にも聞けませんでした。
私の一番のコンプレックスだと思います。
これは私の考えですが。
祖父は遊び好き。
頭がツルッとしてたのに、幼稚園からの帰りに祖父の会社へ遊びに寄ったら、髪の毛がフサフサになっていた時期がありました。若い愛人がいたんですね(笑)
その分、祖母は仕事が大好きでした。週数回遊びに寄っていましたが、いつ見ても仕事をしていました。
母も忙しい親の元、長女として小さなきょうだいの世話をし、親から教わる暇は無かったのでしょう。
周りは親の会社の従業員家族が住んでいてチヤホヤされるけれど、本音で向き合ってくれる人はあまりいなかったんじゃないかな。また、本音で人と付き合う機会も無いまま、結婚してすぐ4人年子の子育てが始まって。自分の子どもにも、心を開く事が上手にできないのかもしれません。
しかし、根っからの商売人の祖母に育てられた母の特技は貯蓄でした。趣味はケチです(笑)。
振り返ると、父も歯科医でしたから、友達には「桂子ちゃんところはお金持ち」といつも言われていましたが。
お小遣いは中2の終わりに始めて2千円もらうまではありませんでしたし。(クラスでアンケートを取って、お小遣いのない家庭がクラスに私と貧乏なら青山君のお家だけだった!と報告してから!)
下着は擦り切れるまで。洋服は叔母のお古をほぼ着ていました。
小6の冬は2枚しか無い上着を自分で手洗い。セーターの洗い方も自己流だから1、2日では乾かなくて。よく湿ったままのセーターを着て学校へ行っていました。
下はスカート1枚のみ。もちろん叔母のお下がり。
叔母は生まれつきホルモン異常で身長が140センチ無いくらいでした。私は小6で既に158センチを超えていたので、叔母のスカートの裾を解き、ギリギリまで伸ばして履いていました。
毎日履いていると裾が裂けてきます。そこをまた繕って卒業まで着続けました。中学で制服になった時の安堵感は忘れられません。
戦後の話ではありません。昭和50年代、高度成長期のお話です。明らかに友達と自分は扱われ方が違うな、と感じ始め、劣等感はむくむくと育ちました。
今は庭で野菜を育てるのが唯一の趣味である母。
あ、ケチの趣味も健在です。
健康でいてくれてありがとうございます。

以上とりあえず母の話。
Olive桂子