誰かと誰かがコミュニケーションをとる際、伝えたいことが伝わったかどうか、そこを判断するのはあくまで伝えたほうであって、受け取った側が「ちゃんと受け取った」と思っていても、伝えた側が「受け取ってもらえなかった」「伝わらなかった」と感じていたら、それは伝わったとはいえないのだろうと思います。
もちろんそのようなミスコミュニケーションは日常的に起きていて、捉え方の違いや感じ方の違いがあったり、もともと価値観というフィルターを通って伝えたり受け取ったりすることで、同じ言葉や表現を用いているようで、違うニュアンスになっていたりすることは当たり前に起きるものです。
けれど、辛い状況にある人や辛い状況を打破したい、打破することに力を貸してほしいと思っている人にとって、「伝わらない」「受け取ってもらえない」という感覚は、つらさに追い打ちをかけるものであり、孤独感や無力感を感じさせるものであり、時には絶望的な気持ちになることもありうるもの。
自殺者数が数年ぶりに2万人を超えたことは、決してコロナ禍の経済的負担・不安などの今への感情だけではなく、コロナ禍前からあった様々な課題が浮き彫りになり、未来が描けない人達が大勢いることが改めて示されたのだろうと思います。
そんななかで、偉い方々が「皆さんのご意見をお聞きしながら」とか「聴く力を持って対応します」というような言葉を使われる場面をよく拝見します。
しかし、本当に聴いてもらっていると家事ている人がどのくらいいるのか、自分達の都合の良い声だけが聞こえているのではないか、自分がみなさんの気持ちに寄り添っている姿勢をアピールするために「聴く」という表現が多用されているのではないか、と感じることも少なくありません。
子どもたちや子どもたちが暮す学校や家庭、地域社会で起きる課題は、個々の問題のようにみえて、実は大人社会の問題が背景にあり、社会全体の課題が影響しているもの。
そのような大きな力によって、小さくて些細に見える声なき声がかき消されているように感じることも少なくありません。
力や影響力を持っている人ほど、自分からより遠く、関わりのないことのように見えがちな小さな社会やコミュニティ、人たちの声を、きちんと「聴く」ことが求められると思うのですが、自分たちの周りの声だけ聴いているのではないかと感じることもあります。
ご家庭や学校で、大人達が子どもたちに対して「ちゃんと話を聞いた」「いつも話ができている」「自分には何でも話してくれる」とおっしゃるケースで、子どもさんが全く異なる感情を抱いておられることは珍しくありません。
そんなとき、大人達は「何でいってくれなかったんだ」「言ってくれれば聞いたのに」など、自分たちを顧みるより先に、子どもたちに矛先を向けられる方も多いのが現実です。
それと同じようなことが、もっと大きな組織・社会でも起きているように感じます。
力や影響力をもつ人たちには、本当の意味の「聴く力」を持ち、自分たちと対極にいるような人たちともっと対話をし、声を聞いてほしいと思います。
そういう大人達の背中を、子どもたちは見ていることを知って頂きたいと思います。