今日目にした記事が涙、涙でしたので、
記事の一部を順番が違いますが、
引用させて頂きます。
昭和天皇の涙
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「帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたるもの及(および)其(そ)の遺族に想(おもい)を致せば五内為に裂く。……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以(もっ)て万世の為に太平を開かむと欲す」
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昭和天皇は戦後の起伏に富んだ日々を、ひたすら終戦の詔書に込めた国民の犠牲への嘆きを心に刻みながら、過ごしてこられた。
うかつな私なぞは先のお言葉で初めてその事実に気づかされた。
後日ある写真週刊誌が、式典のお席で昭和天皇が一条の涙を流しておられるお姿を、報じた。
そのお写真は、戦後の日々が昭和天皇にとってどのような辛い重荷であり続けたかを、まざまざと見せつけた。
戦後の経済復興と繁栄の中で、多くの国民がおおかた忘れかけたことも、昭和天皇にとっては永遠に失われることのない十字架であり続けたに違いない。
■昭和天皇最後の終戦記念日
昭和63年(1988年)8月15日は昭和天皇が最後に迎えた終戦記念日だった。
この時、昭和天皇のお身体はすでに癌に深く蝕まれておられた。7月下旬から那須御用邸で静養をしておられた昭和天皇は、側近の制止を振り切って8月13日にヘリコプターで東京にお戻りになった。そして進退がご不自由なお身体に鞭打って、日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式典にお出ましになった。
昭和天皇は病み衰えて、たいそうおやつれになり、手すりにすがりながら壇上に登られた。しかし、足元がおぼつかないために、正午の黙祷の時間までに壇の中央に進むことができなかった。凄まじい平和への執念だけが、この時の昭和天皇を支えていた。
■和歌に込められた強い思い
昭和天皇はこの日、次の御製を詠んでおられた。
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やすらけき 世を祈りしも
いまだならず
くやしくもあるか
きざしみゆれど
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およそ以下のような意味かと拝察する。
これまでひたすら平和な世界を祈ってきた。しかし、晩年を迎えた今も、成就しない。それが悔しい。わずかな兆しは見えているけれど。
天皇という重いお立場にあって、しかも和歌というみやびな表現形式の中で、あえて「くやしくもあるか」という厳しく率直な表現を使っておられる。
それほど昭和天皇の平和への願いが強かった事実を示すものだろう。
この昭和天皇の背負われた
十字架を、
裏口で、勝ち取られてきた
学歴の主が背負うことが
できるのだろうか。
MEKAKEでもダメだと言われた
昭和天皇は、
見抜いていらっしゃったのでしょうね。
浩宮の次は、浩宮の子
これこそが昭和天皇のご遺志を
尊重するものだと思います。
で、なければ
戦場に散った方々の御霊は、
浮かばれないでしょう。
愛子さまの中学生時代の作文で
「平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々『平和』『平和』と口に出して言う。
しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。
では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。何気なく見た青い空。
しかし、空が青いのは当たり前ではない。
毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、
当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。
日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから
『平和』は始まるのではないだろうか」
この言葉にまた、涙、
敬宮さまをおいて次の天皇は、あり得ないです。