50代でも

おやつもお酒も楽しみながら

痩せることが出来る

辛くないダイエットびっくりマーク

 

 

アラフィフ食べ痩せダイエットコーチ

きたにしけいこですニコニコ

 

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今日は、ちょっと私自身のこと

について書かせてもらおうと

思いますニコニコ

 

 

【たくさんの試練を乗り越えて】

 

 

私はつい最近まで専業主婦

でした。

 

 

私が学んでいるダイエット

カウンセリングアカデミーのメンバー

のみなさんは、

 

長年美容関係のお仕事をされてきたり、

✅パーソナルジムのトレーナーをされていたり、

ヨガ講師をされていたり、

既にオンラインで起業されていたり、

 

私から見てもすごいなぁと思う方ばかりで、

 

 

私、50年生きてて何してた

んだろう・・

 

 

って考えたりもしたんです。

あれだけ年月があれば、

何か身につけられたでしょ!って。

 

 

専業主婦っていうと、

なかなか周りにもいなくて

「いいねー!」なんて、

お気楽に見られたりも

するんだけどあせる

 

 

まあまあ、私の人生もいろいろ

ありまして(笑)汗

働いていなくても結構な

試練の波をくぐりぬけてきた

んですよねウシシ

 

 

ここ数年でいうと、

3年前に父の食道がんが発覚汗

なんか喉がおかしいと言っていて

ある朝、味噌汁のなめこが喉に

引っかかって受診きのこ

 

 

ちなみに私の母は、私が27歳の時、

長女を出産する2週間前に

58歳で胃がんで亡くなりました。

最愛の、ほんとに優しい母だったから

あの時のショックは大きかった。

 

 

父は、昔、祖父の建築の会社が

倒れかけた時に、東京の大学を

辞めて帰ってきて、その後一から

建築の事を猛勉強して会社を立て

直してすごく繁盛したんだと。

その頃の話を100回くらい

は聞いた。

 

 

それが私が小学生だった頃まで

の話で、小さい頃の暮らしは

確かに豊かだった。

 

 

しかし、バブルがはじけて倒産ガーン

そこから父はどこかの会社へ入っても

続かなくて。。。

 

 

母が働きに出て、父は朝方まで

飲んで帰ってきていたことも

あったなあ。

 

 

会社が倒産したあとの私の

思春期はとても狭くてぼろい

借家に住んでて、父とよくバトル

してた笑。借金取りの電話も

かかってきたりしてたしねダウン

 

 

高校の時、夜に父と言い争いになって

家を飛び出し、自転車で友達の家に向かう

私の横を、母はゆっくり車を運転して

無事に私が友達の家に入って行くのを

見届けて帰る、っていうね、

そんなこともありました。

 

 

 

けれど、

超マイペースでハチャメチャな

父を、母が亡くなったあとは

なにかと私がお世話することに。。。

要するに私が母代わりニヤニヤ

 

 

一緒に暮らしてはいなかったけど、

次から次へ問題が発生するたびに

電話をかけてくるのでかけつけたし

時々おかずも届けてたあせる

 

 

義理人情に厚く、お調子者で単純、

誰にでもすぐ話しかけて友達になる。

他人には気前がよくて、家族より

他人優先。

 

 

交友関係が広く、ちょっと遊び人でも

あったので、身内はほんと苦労させら

れましたね。

 

 

母が早く亡くなったのも、

お金の苦労とかストレスとか

大きかったと思ううーん

 

 

そんな父の食道がんが分かった時、

もう手遅れで「打つ手がない」と

総合病院で言われ、すぐに大学病院を

紹介されました。

 

 

父は動揺して(当然だけど)、待合室で

兄(息子)や親戚、友達に電話をかけま

くってた。声がよく通るので総合病院の

広い待合室中に響いていた。

 

 

私自身もショックだったし、

そばにいて、かける言葉がなかった。

多分励ましたりもしたのかな?

覚えていない。

 

 

紹介してもらった大学病院は

遠いんだけど、もうそこが高度最先端

医療を行える最後の頼みの綱だったので、

 

 

車で片道1時間半かかる距離を

診察や入院、抗がん剤治療などの

たびに連れて行って丸1日付き添う、

っていうことを多い時は週3回くらい

やったかな。

 

 

それに加え、がんに効く食べ物を

調べて、毎日手作りのお昼ご飯と

晩ご飯、1日2回、車で10分

くらい離れた父の家に届けました車

 

 

父がスーパーへ買い物へ行きたがる

ので(気を紛らわしたかったのだろう)

それも毎日車で連れて行った。

父のため?それもももちろんあったけど、

悔いのないよう自分のためにやってた。

 

 

父はその当時、84歳。

ちなみに90歳まで生きたいと

言っていました笑

 

 

自分の状況分かってるんだろうか?

と思ったりしたけど、父は本気で

治そうと前向きだったんだよね。

 

 

父は電話魔で、チョットしたことで

多い時は1日10回くらい電話して

きた。電話に出るだけで忙しかった笑。

明るく振舞いながらも、一人暮らし

だし、不安も大きかったのだと思うショボーン

 

 

「ありがとうの神様」という本を

プレゼントしたら、亡くなるまでの

2年とちょっと、毎日ありがとうを

唱えてて、それを正の字で回数を

びっしりノートに記録していて、

そのノートは5冊以上になってたびっくり

 

 

最後は震える字で書いてたよ。

頑張り屋のところは感心してた。

病院へ連れて行く車の中で

言い合いになることもあったけど

どこか憎めないところもある父だった。

 

 

父が長生きしたいなら、と

私もがんに関する本を10冊以上

読み漁って、どうにかサポート

したいと思った。

 

*******

 

 

父のがんが分かって3ヶ月の

余命宣告をされた頃、

 

 

我が家では、次女が「どうしても行きたい」と

希望していた進学校に頑張って合格🌸

 

 

 

小中高一貫の大きなきれいな学校だけど

高校からの入学、女子は次女1人だった。

小中学校から受験して入る子がほとんど

だったので。

でも、初日に何人かの女子が話しかけて

くれて、早速友達とガストへ行ってた笑。

 

 

父の余命宣告は、先を考えると不安で

ショックすぎてまいったけど、次女が

新しい環境にすぐに慣れて、楽しそうに

行ってくれてるのが救いだと思いました照れ

 

 

そう思っていた矢先、

次女に頭痛と腹痛が出はじめました。

というか、中学のコロナ自粛の頃から

時々出てたんだよね。

 

 

忘れもしない、中2の終わりのテスト

期間中。勉強、部活、いくつかの習い事、、

いろんなことの両立を必死で頑張っていた

時期にコロナ流行で突然すべてが止まった。

その時、次女の中で何かがプツッと

切れたのが分かった。

 

 

学校が再開し、仲間と一緒に過ごす

のが大好きだった次女は、学校へは

毎日行けたんだけど、たまに頭痛が

出て体育を見学したり、授業中に

お腹が痛くなってトイレへ行ったり。。

 

 

 

そんな感じで、中学を卒業し、

高校に入学してからも体調は悪く、

 

 

朝、起き上がれない日が出てきて、

最初は私もよく分からなくて

次女を説得して、遅れて車で連れて

行ったりしていたけど

(うちから車で1時間の距離)

 

 

そのうち

ペンも持てず、教科書も開けなくなって

学校に行けなくなった。

 

 

 

「(人生)終わった。。。」

 

 

と、次女は起き上がれないまま、

片方の腕で目を覆って呟きました。

 

 

 

ここから父の看病と次女の対応で

ますます大変になっていくんだけど、

長くなってしまったので、

続きは明日以降の投稿で

書いていきますね!

 

 

 

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