龍樹をほんの少しだけ齧ってから、プラトンの『ティマイオス』を読み直していて気づくのは、以前の自分がラインを引いたところと今回引くところが違うということ。
これは、何を意味するのだろうか…
おそらく、私の中で、思索の方法により選択肢が増やされたため、その違いに目が止まるためだろう。
私は、それらの書物からは、その内容はもとより、いや、それ以上に、探究するための思索の仕方を学んでいるということかもしれない。
非常に似ていると感じられるものがこれを読みながら浮かんでくるので、自然とそれとの比較が始まっている。
龍樹とプラトン、思索の仕方の方向は違うようだが、同じことが語られているように感じられる。
その姿勢も、謙虚であり妥協しないというところも共通していて感動する。
プラトンの比喩は気が遠くなるほど壮大で普遍
あるもの 場 生成 において
生成を乳母
脱穀を宇宙のカオス
三角形と無限数
原子の動きと戦争
それらの 生成と分配の繰り返し
仮説と割り当て
そして、真実らしい言論を用いて仮説していく
あえて、ありそうなこと、真実らしい言論、思いなしでしかない、という言葉を用いて、騙されないように配慮する姿勢。
方や、あるものとして推論し排除していく。
方や、ないものとして否定し、そのまま肯定していく。
そのどちらもが共通する真理への飽くなき探究。
私は、その姿勢に美しさを感じて感動するのかもしれない。
この二つを読むと、いかに、私たちの日常は、言葉によって思い込まされ、曲がった目で世界を見ているかが思い知らされる。
そういえば、表紙のカバーの裏に紹介されたホワイトヘッドとシモーヌヴェイユの言葉は、どちらもが「プラトンの数学的思弁」「ティマイオスの核となる考え」という言葉で讃えている。
どちらもが、その思索の仕方を讃えていることかもしれない…と勝手に納得してしまった(笑)
そういえば、プラトンを読もうと決心したきっかけも、神谷美恵子さんの本で、その思索の仕方に感動したからだった( ›◡ु‹ )
岸見先生が訳してくださったおかげで、書店で一般人の私にも手が届くようになりました。
それ以前には、古い古書でしか読めなかった本と知り、いったい日本は本当に文化的国家なのかを疑い、恥ずかしくなりました。
『プラトン ティマイオス クリティアス』
岸見一郎訳 白澤社

