「スーパーガール」
ジェームズ・ガンのDCU2作目。
監督がクレイグ・ギレスピーというのが期待を高めてくれます。
「スーパーマン」の最後に登場して驚かせたスーパーガールが、あの時のイメージそのままで、飲んだくれて暮らしているのが描かれます。
クリプトン人が酔うためには赤い太陽の星でなければいけなく、そこではスーパーパワーはない。
カーラ(ミリー・アルロック)が赤い太陽の星のバーで飲んでいると、そこに剣を持った少女ルーシー(イヴ・リドリー)が現れて、自分の家族を殺したクレム(マティアス・スーナールツ)を殺すのを手助けしてくれたら、父親が作った名剣を上げるという。しかし、クレムがブリガンテという狂暴な組織の一員であるのを知るバーの男たちは、あざ笑うだけ。それだけでなく、ルーシーから剣を奪って持ち去ろうという者まで出る。ルーシーの話を無視していたカーラもさすがにこれは見逃せなくて、男を倒して剣をルーシーに返す。
翌朝、カーラの宇宙船にルーシーがやってきて、復讐の手助けをしてほしいと言う。
カーラはルーシーに復讐などしても心は休まらないから諦めろと説得するのだが、そんなことを宇宙船の外でやっている間に宇宙船をクレムたちに盗まれてしまう。
盗むのを止めようとしたクリプトはクレムの放った矢に倒れてしまう。
医者にクリプトを連れて行く。
クレムは毒矢を使い、解毒薬と交換に物をせしめるのが常道だという。クリプトが死ぬまで3日しかない。
カーラはクレムを追うことにする。ルーシーが付いていくと言うと、「足手まといになるから、来ないで」という。しかし、ルーシーはついてきて、二人でクレムを追うことになる。
カーラの歪んだキャラが秀逸で、演じるミリアム・アルロックも素晴らしかった。カーラのトラウマを明らかにするために、前作の「スーパーマン」ではあえて描かなかったクリプトンの破滅やその後も描かれます。ここら辺はテレビの「スーパーガール」と全然違いますが、初期の頃のコミックの設定に近い(ただ、違いも多い)。
カーラがどうトラウマを克服するかの物語としてよくできていると思います。さすがギレスピー。
ただ、最後にあれだけルーシーに「人を殺すな」と言っていたカーラがクレムを殺してしまうのは納得いかないところがあります。ひょっとして、これは今後の伏線?と思ったりもしますが、せめて、殺さなければどうしようもない状況にするとか、ロボにやらせることもできたろうにと思います。
「ロングウォーク」
スチーブン・キングが最初に完成させた小説と言われるものの映画化。書かれたのは60年代中ごろらしいですが、キングの名前で出版されたのは80年代になってから。ロメロやダラボンが映画化しようとして挫折。今回それに成功したのは、フランシス・ローレンス。キングもエクゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされています。
内戦が終わってから15年後という設定。どういう内戦だったかは語られませんが、その後に強権的な体制になっているよう。経済状態も良くないよう。そうした中で国民のモラルアップのために始まったのがロングウォーク。
抽選に当たった若い男性のみが参加できて、一定以上のスピード、(映画では時速3マイル。原作では4マイルだったのですが、キングが非現実的と気づいて変更を提案したそう)で歩き続けなければいけない。最後まで歩き続けたものが勝利者となり、膨大な金と願いを一つかなえてもらえる特権をもらえる。途中で速度を維持できなくなると警告がでて、3度めで失格になる。その代償は射殺!
車両に乗って軍人が前後を囲んでいて、警告をだし、射殺も行う。この全体を仕切っているのが少佐(マーク・ハミル)。彼はずっとこの地位にあるよう。
ロングウォークの様子はテレビ中継されて全国民がこれを見ている。ただし、映画ではテレビを見ている場面は一切登場しない。また、テレビの中継車とかキャスターなんかも登場せず、中継は軍の車両の隠しカメラから行われる(どんな映像なのかも映画は見せてくれない)。
そこに住んでいる人を除いては、レースの観戦は最後の2人になるまで禁止されている。
ということで、レースが国民に与える影響みたいな部分はほとんどなく、もっぱら競技参加者に焦点を当てる映画になっている。
ちなみに時代設定は登場する車やアイテムから見て70年代後半のよう。原作が書かれた15年くらい後という感じにしたのだと思います。
主人公のレイ(クーパー・ホフマン)が母親(ジュディ・グリア)に送られて出発点に来る場面から始まりますが、出発点には軍の検問があったりして、強権的な政治の雰囲気がある。この雰囲気がハンガー・ゲームに似ているのが偶然ではないでしょう。
出発点で待っている間にレイは仲間を作り、彼らが話のメインになります。彼ら以外の参加者も含めて、お互いに助け合うことも多く、意図的に他の参加者を脱落させようということがない。
レースに参加するのは強制ではないのですが、貧窮した状況ではレースにかけるしかないというのがみんなの動機になっている。この様子は「ひとりぼっちの青春」を思い起こさせました。あの映画の原題は「THEY SHOOT HORSES, DON'T THEY?」で、足を追った馬が安楽死させられることをたとえに、競技から脱落したら死ぬも同然という状況を言っていたのですが、今度の映画では脱落者は本当に射殺されてしまう!
参加者の間の会話もこうしたことを強制同然にやらされることにへの反発の会話が多い。
かなえられる願いにロングウォークの廃止を言う奴もいるのですが、「政治的な要望は無理だろう」
こうした思いが、競争相手にもかかわらず、故意に相手を落とそうとしないことの基になっていると思いますし、憎むべき相手はレースの参加を強制している体制だというのが明確になっているとおもいます。
キングの原作は書かれた時代を反映した反ベトナム戦争のメッセージがあると言われることがあり、キングはそれを否定しているそうですが、この映画では抵抗すべき体制が現在の体制であるとしか思えません。特にレイの父親がどういう人だったかというあたりにそれが明確になっていると思います。
脱落すると射殺される(かなりリアルに撃たれる場面とその後の様子が描かれる)ということはありますが、ほとんどは歩いて、会話しているだけで見せる映画になっているのが見事と思います。
「さよなら、僕の英雄」
アナス・トマス・イェンセンの監督6作目。例によって、マッツ・ミケルセンとニコライ・リー・コスが出演しています。映画によって2人の役の軽重は違うのですが、今回はコスが主役でマッツが準主役。
冒頭でヴァイキングの絵物語がでます。
この物語の意味は色々考えさせられます。
そこから本編に入ると、アンカー(コス)がロッカーに札束の詰まったバッグを入れる場面。姉のフレイヤと兄のマンフレル(マッツ)と一緒に住むアパートに帰ると、フレイレが心配そうに「人を殺したの」「俺はやっていない」。アンカーは、ロッカーのカギをマンフレルに渡して、ロッカーのバッグを母親の家の近くに埋めるように言う。マンフレルの様子は普通でないのですが、アンカーには彼が自分の言うことが理解できていると確信しているよう。
フレイヤが「これを見て」とテレビを指さす。
テレビには警察のパトカーがアパートを取り囲むのが生中継されている。
アンカーが窓から外を見るとテレビの画面と同じようにパトカーが取り囲んでいる。
15年後。
銀行強盗で服役していたアンカーが仮釈放になる。盗んだ現金の場所は不明のまま。
アパートに戻るとマンフレルの様子は以前に増して変。
「マンフレル」と呼びかけると、そっぽを向いてしまう。
フレイアは「ジョンと呼んでやって。今はジョンなの」
「どういうこと」
「自分がジョン・レノンだと思っているの」
フレイアはマンフレルの気持ちに合わせてジョンと呼んでというのだが、アンカーはバカらしいとマンフレルとしか呼ばない。そうしたアンカーに対するマンフレルの態度は過激化して、走っている車から飛び降りたり、窓から外に飛び出したりと自殺行為をし始め、入院させるしかなくなる。
銀行強盗の相棒だったフレミング(ニコラス・ブロ)がやってきて、金を出せと脅す。
バーで飲んでいると、マンフレルが入院した病院で会った精神科医ローターに会う。
意気投合して飲み始める。
翌朝目覚めると、その後の記憶がなくなっている。
ローターがやってきて外でマンフレルが待っているという。
どうやら、酔った勢いで、二人で精神病院からマンフレルを連れ出してしまったよう。
ローターは、他人だと思い込んでいる患者には、思い込みを達成してやるの重要で、そうすれば前の人格が戻ってくるはずだという。マンフレルのジョン・レノン願望を達成するには、ビートルズの再結成が必要だという。既に自分がリンゴだと思っている患者を見つけたが、ポールとジョージの人格の間者はデンマークにはいないようだ。しかし、スエーデンにいるようなので今あたっていると話す。
アンカーはとてもついていけないと、ローターを無視してマンフレルを連れて車で母親の家に向かう。
母親の家は既に他人の手に渡っていて、マグデーレとヴェアナという夫婦が民宿にしている。この2人がまた変わったひとたちなのですが、その話はまた後で。
マンフレルはバッグを埋めた場所を教えないというので、アンカーは森の中のそれらしいところを掘って探そうとするが見つからない。
そんなことしている間にローターが二人の男を連れてやってくる。一人はリンゴだと思っているデンマーク人。もう一人のスエーデン人はポールとジョージの人格が入れ替わるという。しかしもそれだけでなく、ヒムラーとか他の人格もたくさんあるらしい!
マンフレルを入れて3人で練習を始めるのだが…
設定が完了すると話を進めるより、登場人物の掘り下げに舵を切るのがイェンセンの映画の常道。
先に述べた民宿経営者の夫婦が面白いのですが、ビートルズのメンバーやローターにはあまり触れないで、やはりメインはマンフレルとアンカー。二人は子供時代に父親に虐待されていて、その傷が二人を苦しめていることが分かってきます。
マンフレルはヴァイキングが好きで、学校に行くのにもヴァイキングの格好をして行きたがる。父親はそれが気に入らないのだが、アンカーに責任を押し付けて、アンカーを虐待する。
実は原題は「最後のヴァイキング」になっていて、マンフレルのヴァイキング好きが重要な要素となっているのです。
これがどうジョン・レノンとどう繋がるかは強引すぎると思います。また、ビートルズの他のメンバー2人の影が薄いのも意外。
アパートにやってきたフレミングは一人残っていたフレイレを痛めつけてアンカーの居場所を聞き出そうとする。フレイレはなんとか逃げてアンカーたちのところにやってくる。
「電車で来たから後は付けられていない」
はずだったのですが、フレミングはやってくる。
フレミングの暴力のすさまじさはさすがイェンセンというところ。
前作の「ライダーズ・オブ・ジャスティス」はそれまでのイェンセンとちょっと違った作品だったのですが、今回は昔に戻った感じ。ただ、以前ほど過激ではないですが。
冒頭の物語の続きが映画の最後にでてくるのですが、映画の内容と合わせて考えさせられます。