青森市内から南側に、高くそびえ立つ山々が青森市大岳(標高1,585m)を主峰とする18の火山からなる八甲田連峰です。

 

 今から122年前の1902年(明治35年)1月23日の早朝、八甲田山に雪中行軍に向かった陸軍第八師団青森第5連隊の210名が遭難し、生きて帰ったのは199名に過ぎませんでした。ショボーン

 

【八甲田山の遭難】

 

 第5連隊の兵営から目的地の田代温泉までは16kmでしたが、猛吹雪の中で進路を見失い、田代温泉から1.5km手前のところで遭難してしまいました。

 

 何故、危険な雪中行軍を強行したかと言えば、当時、日露関係が悪化しており、戦争がはじまればロシア極東艦隊が青森港を占領する事態が想定され、冬季に行軍する方法を確立しておく必要があったためです。

 

 地図を見ると驚きますが、ロシアの軍港ウラジオストクから見ると、日本海は、東側を日本列島とサハリンに取り囲まれた内海になっており、太平洋側に出る最短航路は、津軽海峡になります。びっくり

 

【ウラジオストク】

 

 八甲田山での遭難から2年後の1904年(明治37年)には、日露戦争がはじまり、1904年2月の開戦から翌1905年8月のポーツマス講和会議までの18か月にわたり、戦争が繰り拡げられました。

 

 日露戦争の勝敗を決したのは、1905年5月27日から5月28日にかけて行われた日本海海戦です。戦艦4隻を主力とする連合艦隊は、戦艦8隻を主力とするバルチック艦隊を殲滅し、1隻もウラジオストクにたどり着かせませんでしたが、1~2隻でもウラジオストクにたどり着いていたら、日本に有利な形でのポーツマス講和条約は締結されなかったのではないかと思います。