書聖 王羲之 | 宇都宮の書道教室【啓桜書道教室】

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書聖 王羲之(おうぎし)



中国、東晋の時代、琅邪王氏という当時最大の門閥貴族に、王羲之(303- 361異説有り)という青年がいました。東晋と呼ばれた国は、現在の中国の長江以南(江南)を支配し、彼の父の従兄にあたる王導が西晋期の混乱の中から立ち上げた国家でした。彼が大人になろうとするころが東晋国の黎明期にあたり、王導は丞相として政務を指揮していました。

王羲之ものち、貴族として政務に携わり、右軍将軍という官職にあったことから、王右軍の名でも知られます。

 当時から「書」は、貴族が持つべき芸能の中でももっとも重視されたものであり、「書」の出来不出来は出世をも大きく左右するほどでした。子供のころから「書」において抜群の才覚を示した王羲之。当時使われていた文字は武骨で重厚、扁平なスタイルが多かったもの、彼の腕により「書」は大きくそのスタイルを変えます。

「声よし、顔よし、姿よし」のニザ様ではありませんが、彼の書は縦長でスタイリッシュ、雄渾な筆勢と高い調子で当時の書の常識を覆し、王羲之は生前から書において高い評価を得ていました。歴史にもし、はあり得ませんが、彼がもし生まれていなければ、現在私たちが使う文字の形は有り得ていないと断言できます。彼は書を能くしたばかりか、その才覚は「書」(文字)そのものを変え、書法から骨格に至るすべてを彼がコーディネートしました。そんな羲之様でした。

 当時から誉高い腕を誇った王羲之でしたが、東晋の国は現在の江南地域。王羲之のスタイルはまだまだ中国全土の常識にはなり得ていませんでした。かれの書のスタイルは後に「王法」と呼ばれますが、王法が中国全土に定着するまでにはまだしばらくの時間を要します。

彼の死からおよそ300年。中華の最盛期と呼ばれる唐朝、時の二代皇帝李世民(太宗皇帝)は、王羲之の書をこよなく愛し、彼の書の研究、蒐集に努めます。彼の書の研鑽を積んだ部下を政務の上でも重職に置き、及第試験「科挙」においても王法でないものは回答として認めないとしたほどでした。すべての官僚が王法を学び、その蒐集は最大の国家事業として行います。全土に数千あったと言われる王羲之の書は、一通余すことなく李世民の手中となりました。「王法にあらずは書にあらず」の言葉の如く、王羲之は300年の時を経て中華世界の常識となります。そのころ日本は、遣唐使で必死に漢字ほか中国文化を取り入れ、日本文化の土台を築こうとしている頃です。日本の書が王羲之の影響を色濃く受けたことは、言うまでもありません。

李世民太宗は、王羲之最大のブレーンとなり、王羲之を全土に広めましたが、彼はもう一つの仕事をします。それは、自身の死とともに王羲之の書のすべてを自身の墓、昭陵に副葬すること。王羲之は李世民により確実な名を中華に残すとともに、その姿をこの世から消すこととなりました。今残る王羲之の書の全ては、当時作られた精巧な模本です。広大な昭陵のどこかに、今も王羲之の書があるかもしれません。 なぜ、このような悪行を李世民は最期に行ったのか。皇帝の副葬とすれば当然かもしれないが、全てを手にし、全てを消し去る必要はどこにあったのか。「後の世に羲之の真筆を伝えない」その李世民の真意は永久に謎です。王羲之の真の姿も永遠の謎になり、かくして王羲之は伝説となる。その後の書の歴史の全てを以ってしても追いつかないもの「書聖」として神格化されるのでした。