“老成の芸術” | 宇都宮の書道教室【啓桜書道教室】

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年齢から出る仕事。

老齢であれば、円熟味、枯淡さ、豊かさ

若輩であれば、大胆さ、ボリューム、剛毅さ、

など、経験と年齢が関わってくる仕事というものが、

芸におけるどの世界にもあるように思う。


焼き物などの工芸品や、歌舞伎などの劇も、

枯淡を以て良しとする見方があり、

なるほど確かに、経験に勝るものはないのだと思う。



“老成の芸術” と言われる書は、そのど真ん中と言って過言ではない。

修行中で経験も浅く、

目や耳、筋肉などの五感が抜群に働く活発な時期には

どれだけやろうとも描けない世界が、書にもある。



そうして老成の芸術と言われる通り、現代にあっても書は、

―書だけは―  なぜか若者自身も枯れた線を求めるし、

ほとんどの指導者もそれを求める。



役者も音楽家も、工芸士も職人さえも、

今は若い力、仕事がどの世界にも認められるのに、だ。


先に上げたような若い力、誰もがそこを通過し、

だからこそ、「枯」れるのであるのに。

枯淡などと簡単に言っても、そう容易く得られる世界ではなさそうだ。

若いうちからその世界の深奥に迫りたいと願い、

経験に経験を重ねてこそのもだと思う。


最初から「枯れ」を求めるのはお門違いというものだ。


近現代の芸術は、それまで職人芸とされていたものや、

アカデミックなものから離れ、

リベラルなものや

プリミティブであることを良しとする風潮から始まっている。

それも100年も前にだ。


老成の芸術と言われるゆえんも、書が書としての性格があることもわかる。

書が、わざわざ絵画や芸術の歴史に迫るべきものではないとも思う。


が、

それでもやはり現代の書は、遅れている。


40代 50代は若造と言われる書の世界。

20代の自分などはまだまだ駆け出しのひよっこなんである。


でもねぇ、

アドレナリンが邪魔することだってあるのよ。

今出るものを、今出せるままに求めようと思う。