今回のオリンピック、パラリンピックのテーマは、”多様性と調和”であり、障害のある人でも健常者でも、白人も黄色人種も黒人も、そして性的な嗜好が異なる人も同じ人間である事を認め合い、互いに豊かに生きて行きましょうという崇高な意義を表したものであった。
そこには、国威高揚の為とか、政治体制の優劣とか、ライバル国との軋轢などは入り込む余地はなく、ましてや金儲けでもなく、純粋にスポーツを楽しみながら各自の能力を発揮するという祭典であった筈だ。
確かに世界のトップレベルのアスリート達にとっては、何が何でも金メダルを獲りたいという気持ちを持つのは当然の事だろうし、勝って泣いて、負けて泣くのも悪い事ではない。しかし、世界一決定戦はオリンピックに持ち込む必要はないのではないだろうか?
どんなスポーツでも、そこそこの競技人口がいれば国際大会を開催しているし、そこで競っていれば良いのでは、と私は思う。
私がパラリンピックを強く推すのは、ほとんどのアスリートが、自分のベスト(タイムや順位など)の更新を目指していて、他人との比較でのトップを目指しているのではないという所である。(勿論、一部ではそれもあるが。)
その分、勝っても負けても、競技が終わった後のアスリートのさわやかさが美しく見える。
我々人間、特に先進国に住んでいる人々は、どうしても他人との比較をして、優越感や劣等感を持って生きてしまう。そして、格差、差別を受け入れるようになる。
その先進国の、金持ち上級国民は優越感から、差別を生み出し続けて行くことになる。
何故私が偏屈になるかというと、崇高なテーマを掲げた大会に、IOCの役員が一泊350万円の部屋に泊まったり、金メダルを獲ると兵役免除や、家をプレゼントしたりする国があるからで、非平等の推進を図っているように見えるからだ。
オリンピック、パラリンピックのテーマは、”誰であっても平等に生きる権利を持てるようにする”事であり、大会運営費も旅費もその他経費も、すべてスポンサーや各国の上級国民の寄付で開催すれば良い。
そうすれば、平等に一歩近くなる。
国民の血税をつぎ込んで開催し、更に貧乏がひどくなる増税によって収支の帳尻を合わせるというのは本末転倒だ。