博多港からフェリーで2時間少しで郷ノ浦港へ、対馬と同じく長崎県の壱岐ですが、生活圏は
福岡県であって、買い物に行くにも、博多へ出るそうです。
古事記では、伊邪那岐と伊邪那美がまず、淡路島、伊予之二名島(いよのふたな=四国)、
隱伎之三子嶋(みつごのおきのしま)、そして筑紫島(=九州)と島を生んでいき、
「次生伊岐嶋 亦名謂天比登都柱」
「次に壱岐島を生んだ、又の名前を天比登都柱(あめのひとつばしら)と言う」と5番目に
生んだ島となっており、大八島国を構成する島になっています。対馬はほとんどが山、山で
国道もアップダウンが激しく、リアス式海岸線の島だったのに対して、この壱岐島は平地が
多く、長崎県では2番目に広い平野(東南部)があるほどです。
この平野に弥生時代の大環濠集落が発見され、原の辻(はるのつじ)遺跡として現在は国に
よって整備され、竪穴式住居や掘立柱のある高床式の建物が建てられています。
出土品の土器や馬具、中国の貨幣、鉄器、ガラス玉などが近くの一支国博物館に展示され、
当時の朝鮮半島を経由して倭の国入った重要な中継地であったことが、良くわかるように
なっています。また、他にも弥生時代のカラカミ遺跡もあります。
なお、一支国博物館の「一支国」とは、当時の中国の史書に書かれている壱岐国のことで
その中心が、原の辻遺跡と言うことだそうです。
また、古墳時代後期の円墳や長崎県最大の前方後円墳があり、ここに一つの豪族、または
北九州の属する王権があったと推測されます。
律令制のもとで壱岐は、一つの国として存在し、一宮としては、天手長男(あめのたながお
じんじゃ)神社と輿(こう)神社の二社が比定され、延喜式の論社となっているようです。
また月読宮の元となったと言われる月読神社がありますが、残念ながらバスツアーでは
どの神社にも寄ってくれませんでした。どの神社にも肥前鳥居があるようで、長崎県が昔、
肥前国であったことを確かめることができます。
神社巡りは次回のお楽しみとしましょう!
※写真上は、対馬と違い広い平野が広がる 2016/05/04
※写真中の上は、一支国博物館から見た原の辻遺跡 2016/05/04
※写真中の下は、壱岐で売られていた注連縄(使い方不明) 2016/05/04
※写真下の上は、壱岐、対馬名物「かすまき」 2016/05/04
※写真下の下は、モスバーガーもイオンも島内にあった 2016/05/04