荘園(しょうえん)って学校で習ったことがありますよね。で今、「荘園ってなに?」と
問われたら、なんと答えますか?「う~ん、貴族の農園かな?」くらいですかね?
日本の律令制度は大宝律令(701年)でほとんど完成し、土地は公地公民制により、
口分田(くぶんでん)で一定の大きさの田んぼが民衆に貸与され、そこで出来た
作物の一部を田んぼの借り賃として一部を物納(後には貨幣でも)したのでした。
(まるで社会主義ですね)
しかし、奈良時代に入ると人口増加による食糧難になり、開墾政策を推し進めた
のですが、政府の掛け声だけではだれも動かないので、開墾した人には、開墾した
「本人」「子」「孫」の三代の間だけ自分の土地にして良いことにしたのです。
(三世一身法=723年)これは、日本の土地政策では画期的なことでした。
しかし、孫の時代が終わると、結局は没収されることになり、民衆の開墾意欲は
盛り上がらず、あまり進みませんでした。そこで、新しく墾田永年私財法(743年)を
出し、永久に自分の物になるとしたのです。さすがに自分の物になると、開墾が
進みました。
しかし、個人ではなかなか開墾などは前に進む訳が無く、やはりお金のある貴族や
大きなお寺や神社、地方の豪族が銭に物を言わせ、大規模開墾を手掛けたのです。
世の中、今も昔も変わらないってことですね。もちろん、広大な土地(=輸租田)には
田租(でんそ)と言われる国家を維持する為の税金(物納)が徴収されました。
Wikipediaなどでは、この大規模な私有地を「初期荘園」と言うと書かれています。
荘園の「荘」は、大規模な土地の管理事務所のことで、その管理区域を「園」で足して
「荘園}と呼んだと書かれています。
しかし、井沢元彦著の「学校では教えてくれない日本史の授業・天皇論」では、荘園は
藤原氏の究極の脱税システムだったと書いています。
その当時の中央政府と言えば、実権を握っていたのは、天皇ではなく藤原氏でした。
と言うことは、自分達の都合の良いように律令制度も作れた訳なのです。
「荘園」の「荘」は貴族の別荘の「荘」で、農地でなく庭「園」とすると、そこに植えられて
いるのは「花」と言う事で、税金が掛からないとしたのです。ふむふむ、なるほど!
さらに時代が進むと大きな寺社の中には、中央政府と結託して(多分、賄賂とかが
あったんでしょうね)田租を免除してもらう符(=承認する公文書)をもらった荘園を
「官省符荘」と言います。
で、やっとこの神社の名前に付いている「官省符」の説明ができました。「丹生」にある、
荘園の税金を納めなくて良い(官省符)の神社って、そのものズバリの神社ってことに
なります。ふぅ~
※写真上は、二ノ鳥居に掲げられている扁額は「丹生神社」となっている 2016/07/15
※写真下は、丹生官省符神社の案内板(文字が薄れて読めない) 2016/07/15