ご存知の天照大御神と須佐之男命(=素戔嗚尊)との誓約で、須佐之男命の
十拳剣をかみ砕いて生まれた宗像三女神(むなかたさんじょじん)ですが、
生まれた順番が古事記と日本書紀本文とは違っています。
古事記では、天照大御神が須佐之男命の十握の剣をもらって、三つに折って
真名井の井戸で振り清めてから噛んで噴出すと三女神が生まれ、次に
須佐之男命が天照大御神の勾玉を結んだ玉をやはり、真名井の井戸で振り
清めて噛んで噴出すと5柱の男の神様が生まれました。
そして、下記のように書かれています。
「其先所レ生之神 多紀理毘賣命者 坐胸形之奧津宮 次市寸嶋比賣命者
坐胸形之中津宮 次田寸津比賣命者 坐胸形之邊津宮」
「そして先に生まれた神様が、タギリヒメ(多紀理毘賣命=奥津嶋比売命)で
宗像の沖津宮、次に生まれたのは、イチキシマヒメ(市寸嶋比賣命=狭依毘売命)で
宗像の中津宮、次にタギツヒメ(田寸津比賣命=多岐都比賣命)で宗像のの辺津宮に
鎮座しています」
宗像大社のホームページのご祭神に書かれているのは、「田心姫神(タゴリヒメ)は
沖津宮、湍津姫神(タギツヒメ)は中津宮、市杵島姫神(イチキシマヒメ)は 辺津宮に
お祀りされている」となっています。
すなわちこの順番は、天皇家の正史である日本書紀の本文通りなのです。しかし、
「一書曰く」で他に3通りの出生の順番があり、その内2つは、奥津嶋比売
(おきつしまひめ)が長女となっています。
このあたりが天皇家にとっては不都合な事があるので意図的に誤魔化しているのかも
知れません。そもそも、朝鮮半島に近い大陸文化が一番に流入する位置にあり、
人的交流もあったはずです。
日本書紀には、どこに誰を祀っているとは書かれていませんが、古事記にはちゃんと
それが書かれているのすから、そっちを採用するのが本筋と、、、
なお、辺津宮の本殿とその奥にある第二宮(ていにくう)と第三宮(ていさんくう)を
お参りすると宗像三宮をすべて参ったことになるそうです。不思議なことは、辺津宮の
本殿は両流れ造で千木が外削り(鰹木は奇数=男神)ですが、第二宮と第三宮は、
伊勢神宮の遷宮の時に出た廃材で作られており、神明造で千木は内削り(鰹木は
偶数=女神)となっています。なぜか、おかしいですね。
※写真上は、宗像大社辺津宮(へつぐう)の拝殿 2015/12/01
※写真中は、宗像大社辺津宮の本殿 2015/12/01
※写真中の下は、宗像大社辺津宮の本殿を横から見る 2015/12/01
※写真下は、辺津宮の第二宮は、長女の田心姫神を祀る 2015/12/01
※写真下の下は、辺津宮の第三宮は、次女の湍津姫神を祀る 2015/12/01