古事記では、第12代景行天皇の活躍よりも倭建命(やまとたけるのみこと=
日本武尊)のお話が中心で、天皇自身が九州へ熊襲征伐には行ったことが
書かれていません。
しかし、日本書紀では、日本武尊を行かせる前に天皇自身が一度、熊襲征伐に
行っています。その内容は、不思議な事に古事記の倭建命と同じような事を
やっているんですね。
今回、お伺いした保戸島(ほとじま)は、JR津久見駅から歩いて数分の津久見港
から高速船で25分の位置にあるので、最初は沖合に浮かんでいるのかと思えば、
津久見の東にある四浦半島(ようらはんとう)から海峡を挟んで、わずか100mほど
しか離れていないのです。
周囲約3kmの小さな島です。(私なら橋を懸けてあげるけど、、、)
島の名前は、景行天皇がこの島に来て、海の中の海藻を見て「最勝海藻の門
(ほつめのと)」と言われて、最初の「ほ」と最後の「と」を取って「穂門(ほと)島」と
なって、さらに保戸島と変化したそうです。
日本書紀の景行天皇の項では、
「冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。」
「冬10月に碩田國(おほきたのくに)に到着しました。この地形が広大で大変美しい
ので、この碩田の名前にしたのです。」すなわち大分県の地名の由来がここに
あります。ちなみに「碩」は、大きいと言うことです。
景行天皇は確かに大分県来ていますが、保戸島に来たとは、どこを探しても書かれ
ていませんが、豊後国風土記には書かれているそうです。
※写真上は、JR津久見駅 2016/07/11
※写真中は、保戸島へ渡る高速船 2016/07/11
※写真下は、保戸島と九州は海峡を隔てて約100m 2016/07/11
※写真下の下は、港から見た保戸島 2016/07/11