日本書紀の第11代垂仁天皇の項の「一云(ある言い伝えでは)」に意富加羅國
(おほからのくに=韓国南部の任那?)に戻った、その国の王の子である
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白い石(神の石)と一緒に寝ていると
それが綺麗な童女に化けて、それで喜んで一発やろうと思ったら東の方に逃げて
しまったのです。このスケベエがっ!ほんまに!
そこで阿羅斯等は、日本まで追いかけてきたのです。
「所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神。
並二處見祭焉。」
「追い求めた童女は、難波に至り比賣語曾社(ひめごそのやしろ)の神となす、
かつ豐國(とよのくに=豊後国)の國前郡(国東郡=今の国東市)に至ってからも
再び(復)比賣語曾社の神となした。二箇所で、並んでここに祀られたのでした。」
この難波の比賣語曾社が、焼肉で有名な鶴橋近くの東小橋にある比売許曽神社
なのか高津宮の摂社である比売古曽神社なのか、論社になっています。どうも
東小橋にある比売許曽神社のご祭神が江戸時代は牛頭天王だったので、
高津宮に軍配かな?
でも、どちらもご祭神が下照姫(比売)命(したてるひめのみこと)って、大国主命の
娘やんか!こりゃ、なんかおかしいですね。.
そして、豐國の國前郡の比賣語曾社がこの姫島にある、比賣語曾神社と言うこと
です。姫島の名前の由来が、この比賣語曾の比賣から来ているとも言われています。
しかし、「古事記」では…ありゃりゃりゃ???
※論社=延喜式神明帳(えんぎしき じんみょうちょう)(927年)に書かれている古社の
うち、現在、良く似た名前が二つ以上あって決定し難い神社のこと
※写真上は、東成区東小橋にある比売許曽神社 2015/10/08
※写真中は、比売許曽神社の本殿 2015/10/08
※写真中の下は、高津宮にある摂社の比売古曽神社 2016/06/18
※写真下は、比売古曽神社の案内板(こっちが本物と思える) 2016/06/18



