イメージ 1

ちょいと、更新があいてしまいましたが、久しぶりに行ってみましょう♪

昨年見せて頂いた鳳長承寺現地車の主屋根枡合に入っていた「児島高徳 桜木に歌を詠む」が素晴らしく良く出来ていたので、今日はその児島高徳について。。。
児島 高徳は、『太平記』に登場する鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる備前国児島郡出身の武将です。
よく彫物題材として、彫られている場面は、元弘2年、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となりました。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動ルートを間違ってしまい失敗に終ってしまします。。。(汗)
 高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現・岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまいました。。(激汗)
その際、高徳だけが天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念しましたが、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という彫物にもたまに書かれている漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたと言われています。
因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した幕府軍兵士は高尚な漢詩ゆえに何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇だけが、この漢詩の意味が理解できたという逸話もあります。
この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、翌年に名和長高ら名和氏の導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録には高徳の名前が無く、児島高徳否定説の根拠とされている。
【ほぼ、うぃきぺでぃあ参照】
お話を見る中では、気勢を上げるもルート間違い、集まった兵士にも帰られてしまうという高徳…ちょっと可哀そうな気もしますが、天皇奪還の想いは人一倍あったんでしょうね~
しかし、そんな高徳さんですが、690年も後の関西で彫物としてこんなに伝えられているとは、夢にも思っていないでしょうな~
ではでは、何点か作品を見て頂きましょう♪
イメージ 2

}
イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8