十手持ち?
☆ 時代劇用語指南 (imidas)
捕り物(とりもの)ー 山本博文
刑事事件の容疑者を連行する際、抵抗の恐れがあるときに、与力や同心が出張することをいう。捕り物の際は、与力の指揮のもと、同心が小者を連れて行い、同心は、刃引き(刃を除いている)の長脇差(ながわきざし)を持ち、容疑者が抵抗したときは、これを抜いて相手を攻撃する。与力は、検使(けんし、見届ける役)なので、通常は見ているだけである。捕り物は、容疑者を連行することが目的だから、時代劇のように立ち回りを演ずるのは好ましいことではない。そのため、容疑者に手際よく縄をかける修練をたえず行っていた。ただし、大捕り物のときは、刺股(さすまた)や梯子(はしご)などを使って捕縛する。三廻(さんまわり。隠密廻・定廻・臨時廻)同心が町を巡回中に訴えがあったときは、小者に捕らえに行かせる。目明し(岡引き)は、町奉行所に届け出ている小者とは違い、同心がまったく私的に抱える捜査補助者にすぎず、本来は情報提供をするだけのはずだが、容疑者を番屋(自身番)へ連行することは日常的に行った。
Wikipedia: 十手
十手(じって、じってい、實手)は、日本の武器および捕具の一つ。30cm - 60cmほどの鍛鉄・真鍮・鍛銀(打ち伸ばした銀)といった金属や、樫・栗などの堅牢な木でできた棒の手元に鈎をつけたものである。敵刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用い犯人の関節を極める・押さえつける・投げるなど柔術も併用して制圧し捕縛に用いる。十本の手に匹敵する働きをすることから「十手」であるといわれている。流派によっては実手(正字では「實手」)という表記を使用する。十手を用いた武術を十手術(じってじゅつ)という。
歴史と用法
十手の起源は中国起源説と日本発祥説の2種類がある。中国起源説は、陳元贇が伝えたという説と筆架叉から発生したという説があるが、いずれの説も否定されている。十手の使用方法や柄、漆の使用や鍔の有無といった共通点から、打擲を目的とする「刄引」が十手の起源であり、刃引から拵えと鍔を除いて鉤を付けた「兜割」が生まれ、この「兜割」の鉤を大きくして反りをなくしたのが十手と考えられている。
鉤で敵刃を絡め捕る用法の他、短棒術として相手の手足を絡め捕り柔へと繋げる搦め手により捕縛する十手術がある。江戸時代には対悪徒用の捕物用武具として江戸町奉行所の与力、同心に、また鑑札と共に捕り物の際の手伝いという名目で同心に仕える小者(誤って岡っ引、関八州では目明しとされることもあるが、この両者は非合法に雇われた者であり十手を渡されることはない。私物として無許可で鍛冶屋に作らせて持っていることはあった)に渡されていた。また、時代劇などで紫の房などをつけていたり、柄が太紐巻きで紐の先に房がついていることがあるが、紫房は恩賞などに用いる特別な物であり、本物の模倣が禁じられていた江戸時代の歌舞伎などでの演劇用小道具としての十手の名残である。持ち運び方も時代劇では帯に差しているが、実際は主に十手袋といわれる袋に入れ、懐に入れていた。これは十手が捕具であると同時に身分を証明するものであったため、紛失やスリなどによる盗難への用心のため、また張り込みや尾行の際には自身の身分を隠す必要もあったからである。
もっぱら与力以上の役職は直接捕り物の組討ちに参加せず、同心は捕具としての実用よりも指揮用に十手を持っていたために鉤は付いておらず打刀の拵えのような鍔をはめたもの、自費製作で真鍮嵌め込み(象嵌)や打ち出し、銀打ち出しや銀箔・銀塗り・象嵌、漆かけや螺鈿で装飾した凝った拵えのものが時々見られる。
さてこのような「捕物もの」で先に挙げた「半七捕物帳」や「伝七捕物帳」、「銭形平次(捕物控え)」以外の有名どころの筆頭は『右門捕物帖』だろう。
Wikipedia: 佐々木味津三 (ちょっと泣ける:館長)
佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3月18日 - 昭和9年(1934年)2月6日)は、日本の小説家。佐佐木 味津三と表記されることもある。本名・光三。
来歴・人物
愛知県北設楽郡下津具村(現・設楽町)出身。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)を中退した後、明治大学政経科を卒業。「馬を殴り殺した少年」(『大観』1919年8月号)「呪わしき生存」(「報知新聞」1921年2月4日~3月9日)で菊池寛に見出される。『文藝春秋』創刊号から編集同人となり、芥川龍之介や直木三十五と交流があった。
文壇に姿を現した当初は純文学を志していたものの、父親が遺した借金の為に経済的環境が厳しく、長兄を早くに亡くした事で家族を養い、また家の負債を返す必要が生じたために大衆小説に転向。当時は格下といわれていた大衆向け小説を書くことに抵抗を感じたが、芥川龍之介から激励を受け感激し、そのことが後々まで影響したと自著に記している。『右門捕物帖』『旗本退屈男』など主に江戸時代を舞台にした時代小説を発表し、その当時の花形作家となる。
しかし、自らの体力を削って無理な執筆を重ね、そのため健康を害してしまい、1934年2月6日、急性肺炎のため東京市杉並区高円寺の自宅において若くしてこの世を去った。その死は、現在でいうところの過労死であるといわれている。37歳没。戒名は文光院真諦三味居士(自らの撰)[2]。佐々木が残した資料は、遺族によって明治大学史資料センターに寄贈された。
作品の映画化
佐々木の代名詞となった作品『旗本退屈男』は、1930年(昭和5年)にこれを読んだ市川右太衛門が気に入って映画化。以後右太衛門の主演代表作となり、計31本の大ヒットシリーズとなった。以来、現在に至るまで度々映画やテレビドラマ化され高い人気を得ている。
また、『右門捕物帖』は嵐寛寿郎と山中貞雄によって「和製シャルロック・ホルムス」と銘打ち、『むっつり右門』シリーズとして映画連作された。嵐寛寿郎は晩年、『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院、1976年)の中で、次のように語っている。
ー 主人公の「むっつり右門」というあだ名、バスター・キートンを手本にした無口なキャラクター、人差し指を立ててあごに手を持っていく癖、これらはすべてアラカンが創作したものである。
また登場人物の「あば敬(アバタの敬四郎)」、「ちょんぎれの松」も、アラカンや山中が創ったもので、映画に合わせて佐々木が原作小説に逆輸入したキャラクターである。「あば敬」の「村上」という姓も、映画でこれを演じた尾上紋弥の本名が「村上」だったことに因んでアラカンが思いつきでつけた。「ちょんぎれの松」の「ちょんぎれ」も、山中の口癖から採ったものだった。
『右門捕物帖』の設定は、このように嵐寛寿郎プロダクションで先行して創作され、佐々木の原作に採り入れられていったのだが、当の佐々木は怒りもせず、「今度の映画どうなる?」とアラカンに聞いてきて、あべこべに映画の内容を小説のネタにしていた。アラカンはこれについて「相互扶助や」と笑っている。
これら嵐の談話が、映画関係の本に引用されることもあるが、実際には「むっつり右門」というあだなは小説の第一作で登場しているので嵐のハッタリか記憶違いである。
(ところが)Wikipedia:右門捕物帖での評価は、特に「本格」を推理小説の柱と捕らえる都筑道夫による評価はさんざんなものである(館長)。
ー 推理小説家の都筑道夫は、本作について、『半七捕物帳』と比較して「がぜん派手になるかわりに、あるのは発端の異常性だけ」「きわめて魅力のある謎が、論理をまったく無視して、いいかげんに解決されるありさまには、泣きたくなるくらいで、もう推理小説としては読むにたえない。むしろ、右門のせりふの珍妙さには笑いがこみあげてくるし、その愚かな言動を地の文が、なんたる明察、疾風迅雷の行動、と持ちあげているおかしさで、ロバート・L・フィッシュの「シュロック・ホウムズの冒険」のようなナンセンス・パロディとしてなら、かなりの評価ができるだろう」と評し、「むっつり右門の成功によって、捕物帳は推理小説から、怪奇時代小説に変貌した」としている。都筑は、自作『なめくじ長屋捕物さわぎ』の中で、『右門捕物帖』の「首つり五人男」(第34話)と「幽霊水」(第24話)について、右門による解決の問題点を登場人物に指摘させた上で、別の解決を示している(「首つり五人男」と「水幽霊」、いずれも『からくり砂絵』所収)。なお、都筑にはこのほか、パロディ短編『右門もどき』がある。

探偵としては杉良が主演というだけで満足であるが...
☆ 右門捕物帖
第01話[公式]
第02話[公式]
捕り物(とりもの)ー 山本博文
刑事事件の容疑者を連行する際、抵抗の恐れがあるときに、与力や同心が出張することをいう。捕り物の際は、与力の指揮のもと、同心が小者を連れて行い、同心は、刃引き(刃を除いている)の長脇差(ながわきざし)を持ち、容疑者が抵抗したときは、これを抜いて相手を攻撃する。与力は、検使(けんし、見届ける役)なので、通常は見ているだけである。捕り物は、容疑者を連行することが目的だから、時代劇のように立ち回りを演ずるのは好ましいことではない。そのため、容疑者に手際よく縄をかける修練をたえず行っていた。ただし、大捕り物のときは、刺股(さすまた)や梯子(はしご)などを使って捕縛する。三廻(さんまわり。隠密廻・定廻・臨時廻)同心が町を巡回中に訴えがあったときは、小者に捕らえに行かせる。目明し(岡引き)は、町奉行所に届け出ている小者とは違い、同心がまったく私的に抱える捜査補助者にすぎず、本来は情報提供をするだけのはずだが、容疑者を番屋(自身番)へ連行することは日常的に行った。
Wikipedia: 十手十手(じって、じってい、實手)は、日本の武器および捕具の一つ。30cm - 60cmほどの鍛鉄・真鍮・鍛銀(打ち伸ばした銀)といった金属や、樫・栗などの堅牢な木でできた棒の手元に鈎をつけたものである。敵刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用い犯人の関節を極める・押さえつける・投げるなど柔術も併用して制圧し捕縛に用いる。十本の手に匹敵する働きをすることから「十手」であるといわれている。流派によっては実手(正字では「實手」)という表記を使用する。十手を用いた武術を十手術(じってじゅつ)という。
歴史と用法
十手の起源は中国起源説と日本発祥説の2種類がある。中国起源説は、陳元贇が伝えたという説と筆架叉から発生したという説があるが、いずれの説も否定されている。十手の使用方法や柄、漆の使用や鍔の有無といった共通点から、打擲を目的とする「刄引」が十手の起源であり、刃引から拵えと鍔を除いて鉤を付けた「兜割」が生まれ、この「兜割」の鉤を大きくして反りをなくしたのが十手と考えられている。
鉤で敵刃を絡め捕る用法の他、短棒術として相手の手足を絡め捕り柔へと繋げる搦め手により捕縛する十手術がある。江戸時代には対悪徒用の捕物用武具として江戸町奉行所の与力、同心に、また鑑札と共に捕り物の際の手伝いという名目で同心に仕える小者(誤って岡っ引、関八州では目明しとされることもあるが、この両者は非合法に雇われた者であり十手を渡されることはない。私物として無許可で鍛冶屋に作らせて持っていることはあった)に渡されていた。また、時代劇などで紫の房などをつけていたり、柄が太紐巻きで紐の先に房がついていることがあるが、紫房は恩賞などに用いる特別な物であり、本物の模倣が禁じられていた江戸時代の歌舞伎などでの演劇用小道具としての十手の名残である。持ち運び方も時代劇では帯に差しているが、実際は主に十手袋といわれる袋に入れ、懐に入れていた。これは十手が捕具であると同時に身分を証明するものであったため、紛失やスリなどによる盗難への用心のため、また張り込みや尾行の際には自身の身分を隠す必要もあったからである。
もっぱら与力以上の役職は直接捕り物の組討ちに参加せず、同心は捕具としての実用よりも指揮用に十手を持っていたために鉤は付いておらず打刀の拵えのような鍔をはめたもの、自費製作で真鍮嵌め込み(象嵌)や打ち出し、銀打ち出しや銀箔・銀塗り・象嵌、漆かけや螺鈿で装飾した凝った拵えのものが時々見られる。
さてこのような「捕物もの」で先に挙げた「半七捕物帳」や「伝七捕物帳」、「銭形平次(捕物控え)」以外の有名どころの筆頭は『右門捕物帖』だろう。
Wikipedia: 佐々木味津三 (ちょっと泣ける:館長)
佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3月18日 - 昭和9年(1934年)2月6日)は、日本の小説家。佐佐木 味津三と表記されることもある。本名・光三。
来歴・人物
愛知県北設楽郡下津具村(現・設楽町)出身。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)を中退した後、明治大学政経科を卒業。「馬を殴り殺した少年」(『大観』1919年8月号)「呪わしき生存」(「報知新聞」1921年2月4日~3月9日)で菊池寛に見出される。『文藝春秋』創刊号から編集同人となり、芥川龍之介や直木三十五と交流があった。
文壇に姿を現した当初は純文学を志していたものの、父親が遺した借金の為に経済的環境が厳しく、長兄を早くに亡くした事で家族を養い、また家の負債を返す必要が生じたために大衆小説に転向。当時は格下といわれていた大衆向け小説を書くことに抵抗を感じたが、芥川龍之介から激励を受け感激し、そのことが後々まで影響したと自著に記している。『右門捕物帖』『旗本退屈男』など主に江戸時代を舞台にした時代小説を発表し、その当時の花形作家となる。
しかし、自らの体力を削って無理な執筆を重ね、そのため健康を害してしまい、1934年2月6日、急性肺炎のため東京市杉並区高円寺の自宅において若くしてこの世を去った。その死は、現在でいうところの過労死であるといわれている。37歳没。戒名は文光院真諦三味居士(自らの撰)[2]。佐々木が残した資料は、遺族によって明治大学史資料センターに寄贈された。
作品の映画化
佐々木の代名詞となった作品『旗本退屈男』は、1930年(昭和5年)にこれを読んだ市川右太衛門が気に入って映画化。以後右太衛門の主演代表作となり、計31本の大ヒットシリーズとなった。以来、現在に至るまで度々映画やテレビドラマ化され高い人気を得ている。
また、『右門捕物帖』は嵐寛寿郎と山中貞雄によって「和製シャルロック・ホルムス」と銘打ち、『むっつり右門』シリーズとして映画連作された。嵐寛寿郎は晩年、『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院、1976年)の中で、次のように語っている。
ー 主人公の「むっつり右門」というあだ名、バスター・キートンを手本にした無口なキャラクター、人差し指を立ててあごに手を持っていく癖、これらはすべてアラカンが創作したものである。
また登場人物の「あば敬(アバタの敬四郎)」、「ちょんぎれの松」も、アラカンや山中が創ったもので、映画に合わせて佐々木が原作小説に逆輸入したキャラクターである。「あば敬」の「村上」という姓も、映画でこれを演じた尾上紋弥の本名が「村上」だったことに因んでアラカンが思いつきでつけた。「ちょんぎれの松」の「ちょんぎれ」も、山中の口癖から採ったものだった。
『右門捕物帖』の設定は、このように嵐寛寿郎プロダクションで先行して創作され、佐々木の原作に採り入れられていったのだが、当の佐々木は怒りもせず、「今度の映画どうなる?」とアラカンに聞いてきて、あべこべに映画の内容を小説のネタにしていた。アラカンはこれについて「相互扶助や」と笑っている。
これら嵐の談話が、映画関係の本に引用されることもあるが、実際には「むっつり右門」というあだなは小説の第一作で登場しているので嵐のハッタリか記憶違いである。
(ところが)Wikipedia:右門捕物帖での評価は、特に「本格」を推理小説の柱と捕らえる都筑道夫による評価はさんざんなものである(館長)。
ー 推理小説家の都筑道夫は、本作について、『半七捕物帳』と比較して「がぜん派手になるかわりに、あるのは発端の異常性だけ」「きわめて魅力のある謎が、論理をまったく無視して、いいかげんに解決されるありさまには、泣きたくなるくらいで、もう推理小説としては読むにたえない。むしろ、右門のせりふの珍妙さには笑いがこみあげてくるし、その愚かな言動を地の文が、なんたる明察、疾風迅雷の行動、と持ちあげているおかしさで、ロバート・L・フィッシュの「シュロック・ホウムズの冒険」のようなナンセンス・パロディとしてなら、かなりの評価ができるだろう」と評し、「むっつり右門の成功によって、捕物帳は推理小説から、怪奇時代小説に変貌した」としている。都筑は、自作『なめくじ長屋捕物さわぎ』の中で、『右門捕物帖』の「首つり五人男」(第34話)と「幽霊水」(第24話)について、右門による解決の問題点を登場人物に指摘させた上で、別の解決を示している(「首つり五人男」と「水幽霊」、いずれも『からくり砂絵』所収)。なお、都筑にはこのほか、パロディ短編『右門もどき』がある。

探偵としては杉良が主演というだけで満足であるが...
☆ 右門捕物帖
第01話[公式]
第02話[公式]