日英合作映画「午後の曳航」 - 早すぎたエピローグ(1. 作家の自画像) | 映画探偵室

日英合作映画「午後の曳航」 - 早すぎたエピローグ(1. 作家の自画像)

- 室長による三島由紀夫の自画像 -
三島由紀夫が実際に自画像を残したかどうか、探偵は知らない。太宰自画像
これは、有名な太宰治の自画像。



















下記はいずれも書斎での三島由紀夫。愛猫の名前は「はなこ」。

(いずれも土門拳撮影)。私はこれが三島の素顔ではないかと思う。


猫を抱く三島 愛猫と





















お邪魔猫マック
こちらは昼寝マック。シツレイしました。ああ、この落差よ!

 







 今日の朝、私にも馴染みの深い東北地方で大きな地震があった。私は一日中TVをつけて被災された方々の運命を思った。被災された方々を心からお気の毒に思うとともに、人間には避けられない運命があるという思いを拭い去ることはできない。


1.作家の運命あるいは運命の作家

 三島由紀夫に課せられた運命。それは私の強引な括りによれば下記の「作家群」に共通なものである。三島由紀夫、太宰治(注1)、大江健三郎(注2)、そして筒井康隆(注3)。この四人の作家は共通の運命=精神の病に深くかかわっている(いた)、と思うのである。また、そのことに重大な関心を寄せていると思われる作家に、村上春樹(注4)がいる。筒井康隆はこう言っている - 誤解されることこそ作家の才能だ。

私の意図するところはこれらの作家たちの作品(小説)を批評したり、評価することではない。いわんや、「運命の傷痕」(トラウマ)を精神分析的に解剖するつもりなど毛頭ない。死者に鞭打つ行為は避けるのが最低限の礼儀というものだ。特に三島由紀夫に対しては。私の言いたいのはこうである、「その存在の在りようが、作品を含めてまるごと作家である」と。彼らは作家でさえなければ、おそらく平凡で幸福な生活を送れる(た)ことであろうと、才能などカケラもない私はつくづく思う。その私がどうしてもこの映画を取り上げたかった理由は、「三島由紀夫という運命」に強く心を揺さぶられた世代のひとりであり、そして、頭の良さを除けば、やはり自分も「共通の運命」(精神の病)を持ち合わせていると密かに信ずるからである。また、現代は高度資本主義・情報社会という人類がかつて経験したことのない領域にすでに突入しており、なべて人々の心は病んでいる。二十一世紀は明らかに「欝病」の時代となったからである。その先駆的な存在が上記の四人であると筆者は思う。時代がようやく彼らに追いついた。誤解が解ける時期が来たのではないか。トルストイの言葉ではないが、幸福な天才や英雄は存在しないのだ(未完、そして例によって『続く』)。

1:編集者に連れられて初めて太宰を訪ねたときの逸話が有名である。雑誌「太陽」の編集長であった嵐山光三郎の『文人悪食』にもこの話が紹介されている。

2:大江健三郎はもちろん、通常の意味では格別「精神に傷を負っている」作家ではない。しかし、よく知られるように彼は脳に障害を受けた「光さん」の父親である。また、彼が執筆を含めた全活動を通じて座右の銘というか、常に突きあたらざるを得ない言葉が彼の父の言葉であり、それが「お前が役に立つ人間であると他人から認められることなぞ無いと思え。お前が才能ある偉い人間であると決して自惚れるな」(文意として、探偵)だそうである。悲痛な言葉だ。男性作家の精神の問題はつまるところ観念の問題であり、その中核をなすのは「父と子」の関係である。

3:筒井康隆。博覧強記をもって知られるSF作家(と、言われている)。筒井康隆伝説の1つは「知能指数が180近くある」というものである。ムベなるかな。彼の作品のいくつかには(ご本人は決してお怒りにならないと信ずるが)、精神的な障害の痕を見出すことができる。物が見えすぎてしまうことほど不幸なことはない。にも係わらず、あるいは、であるが故に、彼は「俗なもの」、「劣等なもの」、そして「汚くじめじめしたもの」に共感したり、一体化したりできないのだ。彼の文章には「俗人の血」が通っていない。結果、ロマンとはならずにSFや評論になってしまう。反面、彼のいかにもSF的な作品によって、同種の病を抱える者はリアルすぎるほどリアルな体験を強いられる。恐らく彼は才能があり余るが故に「愛の小説」は終生書けないのだろう。『ダンヌンツィオに夢中』で彼は三島由紀夫に深い、そして通俗と異なる深い共感を寄せている。

4:村上自身は若いころ苦手とした作家に太宰治ならびに三島由紀夫を挙げている。彼の場合は、作家としての出発点が「心的外傷後ストレス症候群Post-traumatic stress disorder (PTSD)」であることだ。類推ではあるが、ごく身近な存在を「どうしても理解不可能な自殺」によって失ったと思われる。彼が「内向=自閉」と「喪失及び回復」をテーマにせざるを得ないのは私にはよく分かるつもりである。

この「すべての関心が自己に向かう」という宿命こそが、精神の病が「自閉的病」であると言われるゆえんである。それは当の「自己」によっては矯正も克服もできないものだ。目に見えない壁が「他人から見た場合の自己像」を彼に与えることを妨害しているからだ。

太宰の自画像が他人から見た場合の自己像ではなくて、自分が自分を見た自己像であることは(当然ではあるが)明白である。誰もそこに「真実の彼」を見出すことはないであろう。無残なことだ。