「離愁」(エピローグ)
雪の日、部屋で修理中のラジオに耳を傾けるマルセルと、それに寄り添う身重の妻の様子を背景に、マルセルの言葉が流れる ―
「アンナが消えて3年が経つ。占領下物資は乏しいながら僕らは1940年冬には元の生活に戻った。1941年の春と秋は何事もなく過ぎた。思い出もあまりない。アンナのことは黙っていたが、妻は少なくとも何か感じていたようだ。私との別れもかんがえただろうか。とにかく妻は悩みも怒りもしなかった。情熱や嫉妬とは無縁の女だ。だがドイツ軍のことは怖がっていた。本能的にも肉体的にも。彼らの足音や音楽にも。彼らが壁に貼る不吉なポスターにも。そして1943年の冬、忘れもしない雪の日だった。」
それはドイツ支配下にあるフランス秘密警察からの呼び出しだった。マルセルの妻を名乗るスパイを捕まえたので、身元確認をお願いしたいということだった。
さし迎えの車が来てマルセルは警察署に赴く。部屋では刑事が愛想良くマルセルを迎え、身分証らしきものを見せながら言った。
「遠いところをご苦労様です。この女をご存知ですか」
マルセルがそれを手にとって見ると、それは明らかにアンナのものだった。
名前はマロワイエとなっているが、ベルギー生まれで国籍はイギリスになっていた。
そして現住所がマルセルの家で、マルセルと結婚していることになっている。
マルセルがその身分証をじっと見ているのを観察しながら、刑事は言った。
「ご存知ないようですな。そうだと思いましたよ。きっと誤解でしょう。名前を悪用されたんですよ。1940年の5月にラ・ロシェルにいましたか?」
「はい」
「この女もそうですよ。アンナ・クフェールという名前に覚えがありませんか」
「いいえ」
「よかった、面倒に関わらなくて。」そして身分証を再び取り上げると言った。
「ラジオ修理工は目をつけられやすいんです。ある種の者、女スパイなどが近づいてきます。」そして帰るつもりでドアのほうに向かうマルセルに声をかけた。
「どうもご足労かけました。そうだ、ついでに会っていただけますか?」
実は別のドアの向こうに女を待たせてあったのだ。沈黙の中で質素なコート姿の女が入ってきて、マルセルの隣の椅子に座った。すこしやつれていたが紛れもなくアンナであった。しかしアンナはマルセルを見ても表情をまったく変えなかった。マルセルの方は、呆然と彼女の顔に見入った。
刑事が聞く。
「写真と違いますか?」
その言葉をきっかけにマルセルとアンナは互いに見詰め合う。アンナの目は一瞬何かを訴えたようだったが、何も言わず正面に向き直った。
その様子をじっと見ていた刑事が言う。
「もう帰っていいですよ。」
しかし、いったん椅子から立ち上がってドアのところまで行ったマルセルは、そこでまた振り返った。マルセルとアンナの目が再び合った。見詰め合う二人に張りつめた時間が流れる。やがてマルセルはアンナのそばに近寄ると彼女の顔に手をあてた。マルセルがおずおずとした微笑みを見せ、アンナの顔には驚きと喜びが走る。見つめあううちにマルセルの顔には決断を終えた強さが表れてきた。そしてそれが女に対するいたわりの笑みに変る。二人はしっかりと見つめあった。
刑事は言う。
「やはりね。思ったとおりでしたよ。女がレジスタンスに誘ったのか、それともレジスタンスがドイツ人の連絡員を使ったのか、これで説明がつく(探偵注:フランスで活動するレジスタンスはイギリスに亡命政権を打ち立てたドゴールからの指令をBBCなどを通じて受けている)。」
そんな刑事の言葉が聞こえている中で、アンナはマルセルの身体に顔をうずめると泣き崩れた。マルセルは愛しむようにアンナの髪をなでる。あのテーマが流れて二人の表情がストップ・モーションになった(完)。