地下鉄の匂い
望郷のペペ・ル・モコことジャン・ギャバンはそれなりに安全な生活を堪能していた筈のカスバから,パリから来た女を追いかけて波止場まで出たために命を落とすことになる。そんなにも望郷の思いを募らせたものは何だったか。「きみ,地下鉄は今でもあの匂いがするかい?」
映画では匂いは映らない。その匂いがどんなものかパリの地下鉄に乗ったことのある方ならご存 知かも知れない。しかし,このような匂いというのは,それぞれの人の奥底にひそかに眠っている記憶なのだ。
私の場合は,それは市電(横浜の市電)のスパークの匂いである。パンタグラフと架線が接触する瞬間に薄紫の火花が散ってこの匂いが密かに立ち込める。私にとっての都会とは,漱石も「三四郎」で書いているように,このスパークなのである。遠い日,私は屋根に立てかけた梯子から転落して庭石に頭をしたたか打ちつけた。火花が散り,あの匂いが鼻の奥に強く感じられた。人にとって故郷とは何か。その生家も親ももはや無い。私は今,後から亡くなった父の年を越えようとしている。