こちらあみ子 (ちくま文庫)
691円
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「あひる」を読み、すっかり今村夏子ワールドにハマってしまったので、すぐにこの本を読みました。
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。
表題作「こちらあみ子」(約110頁)「ピクニック」(約80頁)「チズさん」(15頁)の3編が収められていますが、3編とも全て傑作です。
特に「こちらあみ子」は最近読んだ小説の中で最も大きな衝撃を受けました。読後既に一週間以上も経っていますが、まだその衝撃が心にくっきりと残ったまま・・・という状態、壮絶な小説でした。
受賞作が決まり、取材記者の方々に作品について説明をする場があったのだが、そこで奇妙な感覚を味わった。「あたらしい娘」(「こちらあみ子」の最初に付けられていたタイトル)の良さを分かってもらおうと、一生懸命喋れば喋るほど、なぜか作品の一番大事なものから遠ざかってゆくのだった。歯がゆい思いで四苦八苦している私に、三浦しをんさんが助け舟を出して下さった。
「あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い小説なんです」
なるほど、その通りだった。あみ子の魅力は元々、あらすじなどという安易な尺度では測れないスケールを持っている。
読み手から言葉を奪う小説。これこそが「あたらしい娘」が受賞作に相応しい理由であると思う。
太宰治賞選考委員・小川洋子の選評より
読み手から言葉を奪う小説 正に小川洋子のこの表現が全てを物語る作品だと思います。私も読了から一週間以上経ってやっとこの記事を書くことができました。
「好きじゃ」(あみ子)
「殺す」(相手)
「好きじゃ」(あみ子)
「殺す」(相手)・・・・・・
「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。・・・・・・
好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす・・・・・・
主人公あみ子の「好きじゃ」という気持ちからの言動が、その好きな人達を正に「破壊」し、その事によってあみ子自身も容赦なく砕けていく・・・という余りにも痛ましいストーリー。
(上述のシーンでは、寺山修司の「あゝ、荒野」のバリカンが殴られ続けるラストシーンを思い出したりもしました。これほど悲惨な告白シーンを他に知りません)
電池の切れた、しかも一台だけしかないオモチャのトランシーバーに向かって、
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」
誰からもどこからも応答はない。
「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子。こちらあみ子。応答せよ」何度呼びかけても応答はない。
これがあみ子と周囲の人々とのコミュニケーションのあり方のメタファーです。
しかし、この「応答せよ。応答せよ。こちら○○」と一方的に呼びかけ続けている状態こそ、あみ子に限らず、程度の差こそあれ、誰もが日々感じているコミュニケーション齟齬のメタファーでもあると思います。
人間同士、どんなに親しい間柄であっても、お互いの気持ちを全て理解し合うことなどできない、という当たり前過ぎる現実があります。しかし、親・兄弟・夫婦・恋人等、特に相手への「好きじゃ」という思いが強ければ強い程、「伝わらなさの苛立ち」からお互いを責め合ったり、憎しみ合ったり等ということが起こってしまうこともあります。
あみ子を通して、そんなことをじっくりと見つめ直す契機を与えてくれる小説でもありました。
あみ子の破壊力は強烈過ぎて、とても痛い、キツい小説ですが、それでも読んで良かったですし、あらゆる年代・立場の人にお薦めしたい小説です。
「こちらあみ子」が強烈過ぎたので、「ピクニック」「チズさん」についてはまた別の機会に感想を書ければと思います。
後、町田康の「解説」が抜群に良かったです。
この小説を読んで私たちは、簡単な言葉で表しがたいものが確実に自分のなかに残っているのに気がつく。世の中で生きる人間の悲しさのすべてを感じる。すべての情景が意味を帯び、互いに関係し合って世の中と世の中を生きる人間の姿をその外から描いてることにも気がつく。
なぜ、この小説ばかりがそうなるのか。
それは、人になにかを与えようとして書かれているのではなく、もっと大きくて不可解なものに向けて書かれているからであろう。
とても深く共感できる「解説」というか「感想」でした。
そして・・・1ヶ月後の2月22日に今村さんの新刊が発売されることをAmazonで知りました。今からとても楽しみ!
父と私の桜尾通り商店街
1,512円
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今村さんがデビュー作「こちらあみ子(旧題:新しい娘)」で太宰治賞を受賞した時の「受賞の言葉」を読むと、本当に驚かされます。正に「ここに天才現る」といった印象を受ける内容でした。
第26回太宰治賞受賞の言葉 今村夏子
この度、第二十六回太宰治賞を受賞させて頂くことになりました。ここに至るまでに携わって下さったすべての方へ、心より御礼申し上げます。
去年の六月の初め、アルバイト先の事務所で「明日休んで下さい」と言われた日の帰り道、突然、小説を書いてみようかと思いつきました。小説というものは、アルバイトをしながらでも、短いものなら多分一週間もあれば書けるだろうと、そう思っていました。
なんの覚悟も決意もなく、ただ思いつくままにノートに手書きで書いていき、夏にパソコンを購入し、しばらくしてからプリンタを購入しました。
出来上がった時には、書き始めてから半年経っていました。
手こずることばかりでしたが、これを封筒に入れて郵便局の窓口に持って行きさえすれば、終わらせることができるのだと思っていました。
個人の物語を書くということにどれだけ大きな責任が伴うのか、考えていませんでした。そのことに直面したのは最終選考に残ったという知らせを電話で受けた日の夜です。それから今日に至るまで、自分の考えの甘さや、書くという行為の困難さを痛感するばかりです。
このような栄えある賞を頂いておきながら、非常に情けないことではありますが、次に一体なにが書けるのか、なにを書きたいのか、自分のことなのにいくら考えても答えが出ません。
でもいつか、たった一人の読者の手によって、ボロボロになるまで繰り返し読んでもらえるような物語を生み出すことができたら、どんなにか幸せだろうと思っています。そういう物語は、書く側が命懸けで臨まない限り決して生まれてこないのだと、今更ながら思い知った次第です。
受賞、うれしいです。ありがとうございました。