私たちを結びつける要因も、分け隔てる要因も数多くあり、

中には妥協できない決定的な要因もあります。

私たちは他人の意見に対して批判的で偏見をもっていますが、

自分の中では他人が不条理または馬鹿げていると考えるものを容認しています。

一人称では「普通」は、常に ー「I 」、「Me」、「 My 」です。

 

ですが、明らかに変なのは彼、彼女、彼らです。それが個人の選択ではなく、

彼らの文化の伝統的な行動であるかもしれないと気づくことで、

眉をひそめたままでも許されます。

 

他の文化に親しむことは、興味深く、教育的であるだけでなく、深いつながりを

もたらします。たとえ共通が、私たちが等しく...違うと言うことであってもです。

 

例えば、

   

        ・オランダ人は人と話すときに最も距離を保ちます。

        ・一方、アラブ人は会話中に息を合わせようとします。

        ・東アフリカの一部では、敬意の印として他人の足に

         触れることは非常に一般的です。

 

多くの文化では直接に目を合わせることは、失礼または攻撃的であると見なされます。

一方、アフリカでは相手の目を見ないことは失礼とされます。

 

      ・食後に大きなゲップをすることは、インドでは良い食事のマナー

       とみなされ、中国、トルコではホストに対する最高の賛辞とされます。 

      ・アラブ人は、他人の考えを気にせず公共の場で鼻をほじります。

      ・タイやアラブ諸国では、靴や足を他人に向けてはいけません。

       靴や足は、身体の不浄な部分です。

      ・インドネシアでは、立ったまま食べてはいけません。

      ・日本では、箸で指さしてはいけません。

      ・モンゴル人の頭、帽子、馬に触れてはいけません。

 

個人的には、エネルギーの境界を尊重する人々の間にはある距離があり、

その境界を維持するのは私の責任だと感じています。

誰かが私の境界を侵害してきたら、私は彼らを批判するよりも、

後退することができます。

(彼らはアラブ人かもしれません。)

 

胸に手を伸ばして、ネックレスに触れるのは不適切であること、

特にそれがお守りや神聖な宝石類である場合は不適切であること、

また頭に触れるのも侵害的で個人的すぎることに気付いていない人もいます。

(それが私の子供や孫なら許されますが…彼らはよく分かっているので、

とにかくそんなことはしません。)

子供たちのエネルギーは快適ですが、彼らにも尊重すべき境界線があり、

私はいつ手を引くべきかを知っています。私の動物たちも同じです。

 

これらすべては、私たちが一緒にこの状況にいることを

知るための大きな羅針盤となるものです。

私の好き嫌いは、他の人のそれぞれの理解によって消去することがよくあります。

同様に、私は反対派の恐怖を、私が反対派ではないと理解することで

打ち消すことができます。

そして、そのひらめきで私は突然、彼らが反対派ではないことに気づきます。 

それは口で言うよりも、驚くほど簡単なことです。

 

ルイーズ三田