その日、私がテレビを点けたのは起床してしばらくたった出勤前の朝だった。阪神の高速道路が横倒しになった映像を見たのは確かその時だったと思うが、記憶ははっきりしない。


 当時私はまだ20代で東京で働いていた。私の叔父とその家族は神戸に居住していたので大変心配し、電話を何回も掛けたが全く繋がらなかった。叔父とその家族が無事だと後で親戚伝いに聞いてひとまず安堵したことを覚えている。


 震災の経験談を直接叔父から聞いたのは何年も経ってからのことだった。当時の街の光景は戦後の日本の様だったそうだ。間一髪で部屋の家具の直撃を免れたことや避難所の生活、それでも職場に行かねばならなかったことなど、


 会社からは「会社と家庭とどっちが大事だと思ってるんや!」と上司から叱責され「どっちも大事に決まってるだろ!」と言い争いになったとも語ってくれた。


 私の叔父は大変な苦労人である。もう40数年前になるけれど次男を僅か5歳で亡くしている。公園の滑り台で遊んでいて転落して、治療が遅れたこともあり亡くなってしまった。


 当時小学生だった私も葬儀に参列し、今にも閉じた瞳が開きそうな表情をした幼い従兄弟の姿を見て状況を理解できず、不思議に感じた感覚が今でも記憶に刻まれている。私が人生で死というものに初めて対峙した瞬間でもあった。


 私は長い時間その場に佇んでいた。子供ながらにも大きなショックを受けていたんだろうと思う。叔父の悲しみは想像もできないほど深いものだったことだろう。


 部屋には早めに購入したというピカピカの黒いランドセルが置かれていた。


 その後も叔父の苦労は続く。叔父の妻(叔母)が膠原病を発症、仕事をしながらの介護という生活が始まる。当時の社会では両立しながらの生活は大変なことだったに違いない。そこに、大地震の被災である。生活が落ち着くまで長い時間がかかったそうだ。叔母の病状は一進一退で入退院を繰り返し手術も何度も行ったという。


 その後、長女の結婚を機に、夫婦で帰郷を決め、私の居る街で生活していくこととなった。


 去年の末、その叔母が亡くなった。叔母の病状が落ち着いている時期は、介護施設のサービスを利用しつつ、時には夫婦でドライブに出かけたり比較的平穏な日々が続いた。比較的というのは、その間も何度か入退院があったからだ。


 状況が変わってきたのは数年前、叔母が大腿部骨折をしてからである。入院中に叔母が家に帰りたいとの訴えが強く、次第に食も細り体力も落ち、認知障害も出てきたため、叔父は退院させて在宅介護を決意する。私は退院するのはまだ早過ぎるのではと退院には否定的な立場だったが、主治医と話し合いで退院が決まった。


 主治医からは、二人の夫婦愛に心を打たれたこと、それを尊重したいと思うという言葉があった。それから叔父の奮闘の時期が始まった。


 やがて、叔母は点滴で命をつなぐ看取りの状況になったが、叔父の周囲が心配するほどの献身的な介護は続く。介護サービス関係者の方々にもできる限りのサポートをして頂いた。



 「俺の人生は一体何やったんやろな・・・」と葬儀が終わり、腹一杯泣いたあとの叔父がポツリと言った。


 その問いに答えのないことは叔父自身もよく分かっているだろうけど、やっぱりそう言いたかったんだと思う。私も何も応えることができなかった・・・。


 これが、私の尊敬する叔父の話である。