タルコフスキーの映画『ノスタルジア』を観た。長い間ずっと観ようと思いつつオッサンになってしまった。観終わって数ヶ月経ったけれど、今もなお、霧の深いイタリアの廃墟の中に、自分が置き去りにされているような不思議な余韻が続いている。

この映画は、長年働いてきた介護福祉士としての人生に、鋭く、静かに重なったような感覚があった。

 

 長年続けてきた介護の仕事。介護業界が掲げる「社会貢献」という言葉は、今の私には空虚に響く。介護職に対する社会の評価。そして「誰かがやらなければならない」という善意に課せられる労働。それは誇りと言えるだろうか?もっと認められてもいいのではないか?そんな風に考えてしまう瞬間が、私にはある。少なくとも出世コースにも乗れなかった単なる私の恨み節ではない。そもそも私には出世欲がなかったというのが正しいけれど。

 

平均台の上で、消えそうな火を守る

映画のクライマックス。主人公のアンドレイは、狂人と呼ばれた男との約束を果たすため、温泉の跡地を、手元の蝋燭の火を絶やさぬよう何度も往復する。そして風が吹けばすぐに消えてしまう、小さな火…。

 

その姿は、まさに私の日常そのもののように感じられた。 私は常に、人生という名の「平均台」の上を蝋燭を持ちながら歩いている感覚で過ごしている。 認知症や身体の衰えという、抗えない運命を背負った方々の介護。人間関係。 そして家庭では、高齢の母や、自分以上に重い苦しみを抱える弟との日々。

 

「もし、この火が消えてしまったら?」 「自分の精神が耐えきれなくなったら、私は独りで生きていけるのか?」

未来への自信などない。震える手で、ただ今日という日の蝋燭を守り抜くだけで、精一杯なのだ。

 

誰もが「平均台」の上にいる

人は皆、それぞれの「平均台」の上で、いつ消えるかわからない蝋燭の火を運んでいるのかもしれない。ある人にとっては仕事、ある人にとっては家族、ある人にとっては自分自身の折れそうな心。

 

 

「成功」ではなく「歩み」そのものに価値がある

映画のアンドレイも、何度も火が消えてはスタート地点に戻った。人生において大切なのは、火を一度も消さないことではなく、消えるたびに何度でも火を点け、再び歩き出すその「不器用な繰り返し」にあるのだということ。

 

私は長年介護職として働いてきたけれど、いまだに未来に自信はない。毎日がまさに平均台で必死にバランスをとっている。でも、タルコフスキーの映画が教えてくれたのは、『救いとは、目的地に着くことではなく、歩き続ける姿そのものにある』ということだった。

 

 

社会が押し付ける「幸せ」の形に当てはまらなくても、誇りなんて立派なものが持てなくても、その場に踏み止まって火を守ろうとしている。その姿そのものが、最も崇高な「生き方」なのかもしれない。

 

 

※画像はAIで生成したものです