よかれと思って。


人が喜んでいるのを見てると嬉しい。


だからそのための行動を起こす。


やる気が湧いてくる。


人の喜びを自分の喜びとする。


利他のことをそうとらえていた。

もう少しいうとそういう面でしかとらえていなかった。

相手のことを思っているようでいて、みていなかった。

人が喜ぶならそれでいいやん、と。



以下の本から、利他の持つチカラやとらえ方を知ることができた。



利他は意思の力を超えてオートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。

贈与、ギフトという側面。

利他が支配に。

利己的な利他。

共感の危うさ。

料理が持つ利他性。

受け取ることで起動する利他。

偶然を呼ぶこむ器になる。




利他の本質は他者をケアすること。

「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って他者を気づかうこと、という意味のケア。

よき利他には、必ず「他者の発見」がある。

よき利他には、必ず「自分が変わること」。



この二冊から。

自分の利他的行動で、贈与、ギフトというかたちで、相手に負担感を背負わせていたのか、と思い知り、愕然とした。

思い起こすとそんなことがたくさんあった。

そういえば過去に、よかれと思ってしていたことも、偽善者とか言われたこともあった。

そのときは気にも留めなかった。

気に留めれる器がなかった。


自分の中に間違いなくいる利己的な利他という存在。

このとらえ方を知って、ついついやってしまう利他的行動を差し控えるわたし。

そんなことでいいのかなぁとモヤモヤと…


この二冊のなかの、

"利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。"

"よき利他には必ず「他者の発見」と「自分が変わること」"

の一文に救われた。



他者から学び続けること。

アンラーン(学びほぐし)の連続。

そうか。自分が変わればいいのか。

それならわたしにもできそうかなと。



追記メモ)


利他の反対は、利己ではない。そんなに単純なものではない。



私たちは「利他とは与えること」と思い込んでいるが、いいことをしようとしても、時に相手を傷つけてしまったり、ありがた迷惑なこともあるように、利他として受け取られなければ成立しない。利他には与えることではなく、受け取ることで発生する原理があるのだ。





"最澄が重視した忘己利他(己れを忘れて他を利する)"


"空海が重視した自利利他(自己を深めて他を利する)"


"自分を忘れる、自分を深める、どちらの方向に進むにせよ、自分の存在を抜きにした利他には大きな罠がある。''




空海の自利利他とは、利他と自利は切っても切り離せない、自利こそが利他の土壌であると考えられていた。


利他の本質とは、自分と他者が深くつながるとも言われている。


そういった背景から

利他のことを、

「人の喜びを自分の喜びとする」

という言い方をする人がいる。


わたしには、自分の日頃の利他に近しく、今のところ一番理解しやすい。


利他的な行為をすると、自分にも喜びをもたらしてくれる、自利がめぐってくるということ。


だからついついやってしまう。


ケアの相互性やケア者、被ケア者の関係性の反転とも同じことなのか。



在宅での食事の介助や摂食嚥下訓練の場面でも…


特に家族と食べるを供することは、想像力を育み、他者とのつながりや信頼を深めるような自利利他(利他性)を含んだこと。


自己中心的な利己ではない自利を追い求めることが結果として利他にもつながっている…


だから自利利他というのかなぁ





「為善最楽」という台湾の言葉

『いいことをするのが一番楽しい』という意味で、コミュニティデザインにも通ずる言葉。

楽しいと思えることをしていたら、地域が少しずつ良くなっていくのが理想的だ。