6年前に亡くなったお母さんの命日が近くなると、似た人を電車のホームやまちかどでよく見かけるようになる。それも毎年。

その度に、歳を重ねたお母さんを見たかったな…と、つくづく思う。

たぶん歳いったらこれくらいかな…という感じの白髪の女性を見ると余計にそう思う。

この一年ほど、めっきり夢に出てこなくなった母。

つい最近一瞬だけ夢に出てきてくれた。ほんと久しぶり。

ぼくがベランダに出ている時に、窓越しにふと出てきて手を振っていた。

それだけの夢。


「いいお嫁さんたちもいて、自分の分身の孫たちもいてくれて…」
と、お母さんがたびたび話していた。

ぼくの妻も、お母さんのこのような気持ちが、近頃少しわかるようになってきたとのこと。

ぼくと兄の2人の息子が、ふつうのよい人に育って、孫もたくさんできて、お母さんも最期に「親としてようやった」と、思ってたんじゃないかな…と。

ぼくたちの子どもたちも、少しずつ自立の道にそれぞれ向かっていく歳になり、余計にそう思えてくるのかもしれない。

子育ての正解は、ずいぶんとあとにならないとわからないことなのだろう。

親としては、子供たちにチャレンジしてみてと、そっと背中を押してあげる。

そして、いつでも帰ってきてもええんやでーという家と安全基地を、用意してあげることなのかも。


ぼくの娘たちが小さな頃に、生駒山上遊園地や枚方パーク、映画館へ、おばあちゃん(お母さん)に連れて行ってもらったのを、ふと思い出したそう。

子どもたちのよき相談相手にいつもなってくれていたお母さん。

地域の町会やボランティア活動にそんなに熱心だったほうではない。

でも、お母さんは親しい友人や隣人、親族のよき相談相手となり、話しや日々の悩みを、毎晩のように電話でよく聴いていた。

「うん、そうやね…うん、そうやね…」
「へー、そうなんや〜、ほんで?それからどうやったん?」

夕飯後の時間は、そんなお母さんの背中を見ていた。

まさに、話しを聴く達人だった。

人の話しをポジティブに待っていた姿を思い出す。

亡くなってから6年経った今も、お母さんにお世話になって…と、言ってくださる方々に会うことが続いている。

この世にはいないのに、近くに居る感じがたしかにある。

お母さんの存在を今も感じ続けている。


「どの段階でも希望が存在し続けるのです」
「死ぬ瞬間」エリザベス・キューブラー・ロス著より

この一文を読むと、お母さんが最期の最後まで希望を持っていたんだろうと思う。

「もう思い残すことないわ」
という話しは、お母さんから生前に何度か聴いた。

その言葉は、
「まだまだ生きたい」
という強い希望の裏返しであって、最期の最後まで生きようとしていたんだろうと、あらためてそう思う。

よく生きること。

お母さんがおしえてくれたこと。


フィロソフィア(知を愛する人)

知ることが好きな人


自分から学ぶことが好きな人が多い集団や組織ほど、世の中の変化にもしなやかに対応できて、個が活きる個を活かせるエエ仕事ができる、後々のよい人生にもつながるのではないか


そういう人を時間をかけて少しずつでも増やしていくしかないのかな…と


他の病院や企業の経営層や人事、教育担当の方々と話していてもそう思う


集団や組織、チームのなかで個々にカバーやフォローするのは当たり前のことで、その個自身がまず強く※あらないと集団や組織、チームも強くならない


※ここでの"強く"、"個の強さ"とは…

個々の道徳性や価値観のところ、being、あり方を考えて、しなやかに変化し続け、リテラシーを高めつつその意識を保つこと。それらが"自分らしさ"というところにもつながるかもしれない


ここ、これには、こんな価値があるんだという固有価値をまずは知ること


そして、その場その場でそれらを活かすことができるという享受能力


その能力を持っていても価値を知らなけりゃただの宝の持ち腐れになってしまう


その能力を持っていても活かすことが出来なけりゃただの宝の持ち腐れになってしまう


ならばどうするか?


それらを出せるような集団や組織、社内の環境づくりが欠かせない


対話型の学びができる場をつくることや、お互いが安心して話せるといった適度な心理的安全性ということか


やはりコミュニティづくりが一番の近道なのかもしれない


コロナ禍を経て、人と人とのコミュニケーションに関する価値観が大きく変わったはず


その経験を通して、リアルで人と人がかかわれることの価値も十分に感じてきたのではないか


社内の盛大な忘年会やイベントは、古き良き昭和的な文化かもしれない


でもこのようなどの職員にも開かれた場やコミュニティが存在することが、上記のような社内環境づくりにつながるだろう


お互いが安心して話せる場になれば、自然と対話により、互いの道徳観や倫理観、職業観、知識技術を育てあったり、各々の経験や価値観の共有で新たな発見や出会いも生まれそうだ


そのなかで、新しい学びや仕事への挑戦、新規事業の開発、仕事へのコミットメントも湧き上がってくるというものだろう


学生さんや新人さんと一緒に学ばせていただくなかでも、患者さん利用者さんとのかかわりのなかでも、いつもそう気付かせてもらっている


フィロソフィア(知を愛する人)

知ることが好きな人


やはり、そういう人を時間をかけてでも、少しずつ少しずつ増やしていくしかない…

あらためてそう思う



追記)

孔子の論語の中の恭、寛、信、敏、恵を、下記の本で読んだのを思い出した


恭、寛、信、敏、恵の五つのことをよく世に行うことによって仁となる

※仁とは人を愛すること


①恭

恭しく(うやうやしく)あること。謙虚でいばらないこと

→過度な自意識を慎しむこと

→いつも誰かに学ぼうとすること


②寛

寛容であること。おおらかであること

→人を裁くのではなく、許す心持ちでいること


③信

信用されること。誠実であること

→発言や言動によって、人の信用を裏切らないこと


④敏

鋭敏であること。鈍くないこと

→人の心の動きをとらえることに繊細であること


⑤恵

恵み深くあること。賢くあること

→慈しみ深くあること

→賢明であること


どれか一つでも意志を傾けて生きてみると、ほかの四つもそれに連なって動き出す


5本の指と同じような関係


「はじめての利他学」若松英輔著、NHK出版、2022年



今年も2020年9月21日に膵臓がんで亡くなったお母さんのことを話してくれる人たちに、たくさん会うことができた


同窓会で35年超ぶりに再会した小中学校の同級生の方々


最近自転車で走ってるお母さん見たけど…って言う人もいた(爆)


高校の先生の息子さん達も子どもの頃に風邪をひいて、お母さんが勤めていた病院でお世話になっていたそう


お母さんのことを覚えてくれていることが、ほんとに有り難いし嬉しいことだ


夢に出てきてくれることはかなり減ってきたが、過去の情景を思い出すことが変わらずある


手術した後に看護師の仕事と抗がん剤治療を並行していた


そんななかお休みの日に、大阪駅から歩いて毎日ホールまで行って緩和ケアに関する講演会に一緒に行った


あの日はフラフラしながらどうにか帰ったな…


あの状態でよく講演会に行ってくれたな…


緩和ケア医の垣添先生か、大津先生の講演会やったような気がする



「自分の分身を遺すことができた」


亡くなる前、ことある毎にお母さんが話してくれたことだ


二人の息子(わたしと兄)に頼りになる嫁さん二人を迎えて、孫たちも遺せたという達成感 


 「生きてきた証を感じることができたら、人は尊厳を感じることができる」


まさに、このことをお母さんは身をもって感じ入っていたんだろうと思う


お母さんの仕事と療養生活の両立は、上記のような生成継承性とディグニティーセラピーが混じり合っていた


エリク・エリクソンが論じた生成継承性は、個人が次世代に知識や経験を伝える概念


ディグニティセラピーは、終末期の患者が自らの人生を振り返り、尊厳を保ちながら生きる方法を探る心理療法


両者は異なる概念だが、共に人間の尊厳と人生の意味に焦点を当てている



日々の暮らしと仕事を愉しんでいたお母さん


わたしと兄の嫁さん二人は、そんなお母さんのことを今も心から尊敬してくれている


それもとても嬉しいことだ


お母さんが亡くなった後も、生成継承性でいうと、今もお母さんがわたしたちに良い影響を与え続けてくれ、日々の暮らしにつながっていることを実感する


わたしたちもこれから歳を重ねて、自分がそのような存在になれるよう、今をよりよく生きることを変わらず続ける


このことをお母さんの命日におもいなおした



参考文献)

「物語としてのケア」野口裕二著、医学書院、2002年




「喫茶グリーン」は、わたしが住んでいるマンション自治会の活動のひとつで、ゆるいつながりづくりの場として偶数月の第一日曜日朝10〜12時にマンション集会所で、2018年から開催しています。

わたしが発起人です。

始める前は、参加者は当時の自治会長だったわたし1人でもいいから、集会所をゆるいつながりの場として、毎月の第一日曜日の朝からまずは開いてみようといった感じで。

「新たな出会いと出会いなおし」を…ということで、とりあえずやってみようという思いでした。

7年目となったこの場は、マンション住民に開かれた選択肢の一つであり、参加者が対話を通じて自身の意見や個々の価値観を大切にしつつ、過度なルールを設けず、自然な交流と誰もが参加しやすい環境づくりをみなさんと模索しているところです。

「顔の見える関係性」の中で、互いの節度を育むことも重視しています。

ソーシャル・キャピタル(社会関係資本:つながりや絆)が高い「顔の見える関係性」での対話は、自分が感じていることや思っていたことを安心して話せたり、人の話しを聴きやすくすることにも大きく作用しています。

一方で、しがらみや根回しなどで意思決定に時間がかかるといった高すぎるソーシャル・キャピタルによる弊害があるのも事実。

また、喫茶グリーンになかなか入りにくい、参加の敷居が高いと感じる方々も多いのも大きな課題と認識しているところ。

しかし、他所での様々な取り組みを概観していてもこれらの課題には特効薬や明確な答えはなさそうで、開かれたゆるい場づくりを続けながらみなさんと考えていくしかないでしょう。

参加しているみなさんがなによりも愉しめることが一番大切。

地域における対話の文化を醸成し、個々の小さな物語りを大切にしあうことで互いの存在の承認にもつながっていくと感じています。

さらには個々とその場の物語の書き換えへとつながる可能性も期待できるのではないでしょうか。

2018年から続けていると、実際にそのような方々を散見します。

自治会サポーターを募り、マンション住民を巻き込んでの暮らしや防災減災についての取り組みを始めた方がおられます。

自治会の活動には元々は消極的だった方。
マンション内のかまどベンチづくりや炊き出し訓練を、自治会サポーターとして地域や住民を巻き込んで毎年2〜3回開催することに中心的な役割を果たされるようになられています。

防災減災の活動は、自治会、地域と関係なしに協働していかないといけないところです。

特に分譲マンションでは、コミュニティづくりを担う自治会と建物の管理を担う管理組合が、連携して協働していくことが必須でしょう。

この活動が、年代も違い、知らなかった人同士が協力し合う経験を通して、「顔の見える関係性」づくりに一役も二役も買っています。

手芸クラブを自治会員向けとその子ども達向けにはじめた方もおられます。

若い方からも編み物を教えてくださいというオーダーも。

おひとり暮らしの高齢者や障がいのある方々だけでなく、若い働き盛り年代の方々や子どもたちの愉しみや生きがいにもつながっています。

麻雀教室の講師役をかって出てくださる方やスマホ・パソコン教室を開いてくださる方、大学生のボランティアの応援参加もありました。

喫茶グリーンでの対話を通し、出会い直しをされて、エレベーター内やごみ捨て場で立ち話したり、お互いの家を行き来するようになった働き盛り世帯や、高齢のおひとり暮らし世帯ではもしもの時に備えてお互いの鍵を交換されたり、緊急時にお隣りにもわかるように壁を叩くなどの連絡方法を確認し合う高齢者世帯も多くなっています。

施設に入所された90歳代の方との近況報告で、マンションを退去された後もゆるいつながりが続いている方もいます。

さらには近所のスーパーが閉店したため、高齢者世帯の方々数名とクルマに乗り合わせて一緒に別のスーパーへ買い物に行く方も。

喫茶グリーンを開始した2018年当初は、人の話しを遮って話し始める方や、きまって批判的な発言ばかりする方もいました。

でももう今ではみなさん対話することにも慣れてきて、声の大きな人や発言力のある方々だけの場ではなくなりました。

自発的に発言する方もいて、少なくとも自分の話す番になると安心して自分の言葉で話せる場になってきています。

節度ある姿勢で人の話しに耳を傾けて聴く方々ばかりになっています。

対話の繰り返しにより、アダム・スミスが「道徳感情論」で提案していた『公平な観察者』を自分の中に育てることにつながってきているのかもしれません。

開始当初は毎月開催だったのが現在は2ヶ月に1回の開催になったためか、みなさんと会うのに嬉しさや清々しさ、どことなく懐かしさ、安心さを感じるようになっています。

喫茶グリーンでの社会的実験としてゆるやかなつながりを模索する中で、地域コミュニティにおけるしあわせな人間関係の基盤を築いていくためのヒントが何か導き出せるのではないかと、開始当初より強く感じています。

今後もコンヴィヴィアリティ※(自立共生、節度ある愉しみ)、"過ぎたるは、なお及ばざるが如し"※をキーワードに、マンションや地域におけるゆるやかな人間関係の構築をみなさんと愉しみながら模索してみようと思います。


参加文献)
『面識経済』(山崎亮 著、光文社)

『ゆるい場をつくる人々』(石山恒貴 著、学芸出版社)


『しあわせの哲学』(西研 著、NHK出版)


『まちライブラリー通信2023年春号,2025年新年号』(礒井純充 著、まちライブラリー)




※ 「コンヴィヴィアル(Convivial)」は、ラテン語の「convivere(共に生きる)」に由来し、英語では「友好的で賑やかな」「共に楽しむ」といった意味を持ちます。また、哲学者イヴァン・イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティ(Conviviality)」という概念では、個人の自律を尊重しながらも、人々が互いに支え合い、共に成長する社会のあり方を指します。

※足るを知る、分をわきまえる
過ぎたるは、なお及ばざるが如し

何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらないのです。過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよろしいようです。




ラスキンとモリスの森へ


自然と大地と草木花、森や動物、人を含めた生き物が、それぞれつながりあって生きている


お互い知らず知らずのうちに頼り合いながら生きている


今回のイベントに参加して感じたこと



初めて(一般財団法人)大阪ラスキン・モリスセンター、コミュニティデザイン・ラーニングセンターへ







面識のない人同士がつながり、面識のあった人同士もつながり直すという愉しさを、今回のワークショップで体感できた


その一方で、人と自然の関係性を固有価値として感じることは、日頃の暮らしや仕事のなかだけではなかなか難しいとも思った


ワークショップの後の帰り道に立ち寄ったグラングリーンのような都市のなかにある緑にも固有価値を感じるが、能勢の里山が持つ固有価値とは全く違うもののように思えた


大阪梅田駅から1時間ほどの距離


大阪市内の都会と池田市や川西市の住宅街と、能勢町の家々と山や森をつなぐような能勢の里山


大阪ラスキンモリスセンター(コミュニティデザイン・ラーニングセンター)と地元の方々との里山の水環境などをめぐる様々な関係性をどう構築していくのか


地縁型コミュニティと興味型コミュニティの共存共生をどうすすめていくのか


わたし自身が住んでいるマンション自治会で、2018年から住民のみなさんとゆるいつながりの場づくりを試みている最中ということもあり、その行く末が一番の関心どころだ



福本繁先生の植生ガイド中に、たまたま通りかかった地元の方も道端になっているカタバミの味に興味深々の様子だった


トム・ソーヤーのペンキ塗りの話しと同じことで、人がいきいきと愉しそうに何かしているのを見ると、あの人たちは何をしているのかなぁ…と関心がわいてくるということだろう


「何をしているんだろう?」

地元の方々からのそんな目線を、参加者でありながらとても強く感じた


ここで気づかされたことは、おもしろいことと、少し気難しいことのバランス感覚が大事ではないかということ


ここの塩梅が一番難しいところだろう



この日のプログラムが終わって帰る前


参加者の皆さん同士でお互いに

「またどこかでお会いできますねー」


と、自然と互いに言い合っていたのがなんかおもしろかった


自分と同じような部分で固有価値を感じていた方々が、参加者として集まっていることの心地よさ、安心感というか嬉しさがあったからだと思う


だからまた会える、また会って話しを聴きたい


各々の発言や会話を聴いていることが愉しかった


自分がまだ知らない自然の中の固有価値を感じ、すでに暮らしや仕事のなかでそれらを活かす享受能力を発揮している方々の話しを聴くことは、とても心強くて刺激的な時間だった


ワークショップはやる側も参加する側もオモロい。そういう境界線みたいなのがないのもおもしろい。



一夜明けて、大阪の住宅街や都市での暮らしや仕事に戻っても、道端になっている草木花を見て、コレ食べれるかなぁ…とその都度振り向いたり立ち止まっている自分がいて、少しうれしくなった


わからないことを知って、さらにわからないことが増えた


知るための時間をつくっていこうと思う


それが一番愉しみだ











森の中にはある鹿の寝床と大きな岩