モンゴルの中年の星、ついに・・・ | Kobakenの「努力は必ず報われる!」

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この世で最も美しいものは、無意識の親切(by Kobaken)

現在、大相撲界はモンゴル出身力士が席巻している。横綱が3人ともそうだし、昨日千秋楽を迎えた名古屋場所で新大関としてお目見えした照ノ富士(23、伊勢ヶ濱)もそうだ。「国技が泣いている」という声も多いが、活躍に国籍は関係ないのではないか、と私は思う。



こうした現在のモンゴル人の隆盛の基礎を築いた先駆者が、ついに土俵を去った。



その先駆者とは、40歳を迎えても現役幕内力士として土俵に立ち続けた「レジェンド」旭天鵬。「丈夫で長持ち」の典型例だったパイオニアが、名古屋場所では幕内下位でわずか3勝に終わり、十両への転落が決定的となったことから、ついに引退を発表した。千秋楽の取組を終えて引き揚げる花道で流した涙と、名古屋場所を制したモンゴルの後輩・白鵬(30、宮城野)のうっかり発言が、それを物語っていた。



旭天鵬勝。本名、ニャムジャウィーン・ツェウェグニャム。昭和49年9月13日、モンゴルで誕生した。ツェウェグニャム少年が大相撲で活躍するために初めて日本の土を踏んだのは、平成4年2月のことだった。当時、日本相撲協会は外国出身力士の受け入れを自粛する傾向にあった。しかし、当時の大島親方(当時44、元大関・旭國)が解雇処分を受ける覚悟をしながら、モンゴルから6人の若者をスカウトし、大島部屋に入門させた。その6人を、以下に挙げる。


ダヴァー・バトバヤル(当時19、元小結・旭鷲山)

ニャムジャウィーン・ツェウェグニャム(当時17、関脇・旭天鵬)

バトムンフ・エンフバト(当時18、元幕下・旭天山)

シェレンチミド・バトジャルガル(当時18、元三段目・旭鷹)

ロソル・テメンデンバレル(当時17、元序二段・旭獅子)

シャラー・ムンフボルド(当時18、元序二段・旭雪山)


以上6名が、史上初のモンゴル出身力士として、平成4年春場所で初土俵を踏んだ。当時、相撲界は若貴兄弟がもたらした空前のブームの真っ只中で、日本では彼らの影響を受けて大相撲を志願する若者が増え始め、史上最多となる160人の新弟子がこの場所で初土俵を踏んだ。



ところが、平成4年8月、大島部屋から、旭天山以外のモンゴル出身力士が脱走した。18日未明、夏場所と名古屋場所を終えたモンゴル出身力士は、社会主義国家に移行した母国の情勢を不安視し、またホームシックに悩まされたこともあり、部屋の力士たちが寝静まった頃を見計らって宿舎から逃げ出し、モンゴル大使館まで徒歩で向かい、大使館の前で一夜を明かした後、帰国の意思を伝えた。そのため、平成4年秋場所のモンゴル出身力士5人の成績が「全休」となっている。秋場所後、師匠・大島がモンゴルへ出向き、「これからはモンゴルの時代になる」と説得。脱走した5名のうち旭鷲山・旭天鵬・旭鷹が日本に戻ったが、旭獅子と旭雪山はそのまま廃業となった。旭鷹は1年後に廃業。旭天鵬と旭鷲山の活躍は周知の通りで、この2人の活躍を契機として、モンゴルから力士を志す若者が多く来日し、日本の相撲界で活躍することとなった。現在の3横綱も、その一部である。



心を入れ替え、日本の相撲界での成功を目指していた旭天鵬だったが、稽古は以前よりも激しさを増し、稽古が終わると、「あいつは脱走したことがある」という目で見られ、誰からも相手にされなかった。暗いトンネルの中を歩いていた頃に手を差し伸べてくれた人物が、2人いる。まず、大島部屋の看板とも言うべき存在だった元小結・旭道山(当時28。平成8年、国会議員選挙に当選して引退)。異国の地で奮闘するモンゴル出身の弟弟子たちの精神的支柱となっていた。そして、師匠・大島。「強くなれば、親の面倒を見てあげることができるようになるよ」と励まし続けた。こうした恩人たちの支えもあり、旭天鵬は、同期の旭鷲山に遅れはしたものの、懐の深い四つ相撲を生かして着実に番付を上げ、平成8年春場所で新十両。2年後の初場所、新入幕を決めた。同期の旭鷲山は、すでに三役を経験していたが、そこから引退まで連続で平幕の地位に座り続けることとなる。



平成11年夏場所から幕内に定着し、12年初場所では初の三賞(敢闘賞)を受賞。翌春場所で初めて平幕上位に進出した。その後、上位で負け越して中位から下位で勝ち越すというパターンが続いたが、平成14年初場所、初土俵から10年を要してようやく新三役に昇進した。1場所で陥落したが、同年秋場所では8場所ぶりの出場で館内を沸かせた横綱・貴乃花(当時30、二子山)から自身初となる金星を挙げ、九州場所で三役に復帰。15年夏場所、小結3場所目で勝ち越しを決め、翌名古屋場所では新関脇に昇進。外国出身力士の中では遅い出世だったが、遅ればせながらも、「大関候補」の声が挙がっていた(実際は関脇3場所で終わっている)。また、当時はモンゴルから力士を志願して来日する若者が後を絶たず、旭天鵬は旭鷲山とともにこうした新弟子たちの良き相談役となっており、先の名古屋場所で35度目の優勝を果たした白鵬も、旭天鵬を「兄貴」と慕っている。



日本の相撲界で活躍するにつれ、日本になじんできた旭天鵬は、「親方として日本に残りたい」という気持ちを強くしていった。ところが、日本国籍を保持していなければ、引退後に年寄名跡を襲名して日本相撲協会に残ることができない。そのため、平成17年にモンゴル出身力士としては初めて日本国籍を取得。それに際しては、師匠・大島が養父となり、大島の姓と自身の四股名の下の名を合わせた日本人「太田勝」が誕生した。これにより、大島の停年退職後に大島部屋を継承するという青写真も浮かび上がった。しかし、旭天鵬の帰化は母国・モンゴルでは受け入れられず、「国を捨てるのか」という非難の声も上がってしまった。



平成17年に平幕に甘んじるようになってからは、上を目指す若手力士の壁として立ちはだかった。ところが、平成19年夏場所前に自動車事故を起こし、謹慎処分を受け、新弟子時代に自身が部屋を脱走してモンゴルに帰国して以来14年半ぶりの休場。名古屋場所は十両の地位で迎えることとなった。謹慎を受けて以来、旭天鵬の頭の中は事故のことで埋め尽くされ、土俵に立つ気になれなかった。しかし、怖かった「オヤジ」の大島が無理やりにでも旭天鵬を土俵に立たせ、自らまわしを締めて胸を貸してくれた。そんなカミナリオヤジのおかげで立ち直り、名古屋場所では十両力士を相手に格の差を見せつけ、十両の優勝決定戦に進出する活躍ぶりを示した。そこから上位に復帰するのに、時間はかからなかった。その後、平成21年には34歳で三役復帰を果たしている。



平成24年4月、師匠・大島が満65歳の停年を迎え、日本相撲協会を退職した。当初の予定からすれば、旭天鵬が養子であるため、余力があっても現役を引退して大島部屋を継承することとなっていた。しかし、本人は37歳でも「まだ取れる」と拒否し、大島部屋が閉鎖となって友綱部屋に吸収された。この選択が誤りでなかったことは、直後の夏場所からうかがえる。

平成24年夏場所。無敵を誇る白鵬は初日に敗れ、中盤で連敗を喫するなど、珍しく不調にあえいでいた。14日目終了時点で、トップの3敗に稀勢の里・栃煌山・旭天鵬の3人が並び、1差で白鵬・隠岐の海・碧山が追いかけるという、近年にはなかった大混戦となっていた。6人による優勝決定戦の期待も高まっていたが、千秋楽が始まると、いきなり3敗の3人に賜杯の行方が絞られた。なんと、栃煌山の対戦相手だった大関・琴欧洲(当時29、佐渡ヶ嶽)が千秋楽を休場したため、栃煌山が不戦勝となり、この時点で4敗力士に優勝の可能性がなくなってしまったのだ。このため、せっかくの大混戦の面白さが半減。3敗力士の顔触れを見ると、番付が最も高い稀勢の里が有利と見られていた。本割で、旭天鵬は勝ったが、稀勢の里が敗れてしまい、栃煌山と旭天鵬による40年ぶりの平幕同士の優勝決定戦が組まれた。その決定戦で旭天鵬が叩き込みで栃煌山を破り、37歳8カ月で幕内初優勝。これは、優勝制度が確立されてから史上最年長初優勝、さらに、初土俵から121場所目での優勝は、史上1位のスロー記録となった。この記録ずくめの優勝を手にした旭天鵬は、引き揚げる花道で、付け人とともに涙に暮れていた。この優勝があったからこそ、現役生活が延長したのかもしれない。この優勝を機に、白星が続くと「優勝の可能性」という言葉を記者が口にし、旭天鵬はそのたびに「ない!」と茶目っ気たっぷりに答えるようになった。事実、これが最初で最後の優勝だった。



平成26年秋場所では、ついに40歳で幕内力士という大記録を打ち立て、同じ場所で、史上初となる40代での幕内勝ち越しを記録した。通算出場回数や勝利数など、様々な記録を励みとしながら、いつまでも終焉の時が来そうにない現役生活を送っていたが、かねてより「十両陥落が決定的になったら引退」と公言しており、先の名古屋場所でついに、23年半に及ぶ現役生活に終止符を打った。あと1場所で史上2人目の「幕内在位100場所」という記録に手が届きかけていながらも届くことはなかったが、「それも、俺らしくていいんじゃないの」と笑った。次の秋場所は初日が自身41度目の誕生日だったが、それもかなわなくなった。大きなケガがなかった上に肌のつやや張りは若々しく、TBS系『ジョブチューン』では背筋力296.5キロを記録し、ネプチューン・堀内健(45)を「本当に40歳ですか?」と驚かせるほどだったが、幕内最高優勝経験者が十両で相撲を取るのは格好がつかないと判断したのだろう。



気さくな性格で、ファンサービス精神旺盛。モンゴルの後輩だけでなく、誰からも慕われた、モンゴル出身力士のパイオニアは、時折涙も見せたが、さわやかに土俵を去っていった。今後は、襲名が既定路線となっていた年寄「大島」を先代から譲渡され、しばらくは友綱部屋で後進の指導に当たるが、いずれは大島部屋を再興する予定なのだろう。なお、モンゴル出身者が年寄名跡を襲名するのは、史上初となる。



モンゴル人の中で最もお相撲さんらしいお相撲さんだった人格者は、愛される指導者になりそうだ。人々の記憶の中で、永遠に輝き続けるだろう。





~PROFILE~

日本名:太田 勝(Masaru OTA)

部屋:大島(大関・旭國)→友綱(関脇・魁輝)

出身:モンゴル・ナライハ市

生年月日:昭和49年9月13日(41歳)

体格:190センチ、161キロ

得意技:右四つ・寄り

初土俵:平成4年春場所

新十両:平成8年春場所

新入幕:平成10年初場所

新小結:平成14年初場所

新関脇:平成15年名古屋場所

優勝:幕内1

三賞:敢闘賞7

金星:2(貴乃花1、朝青龍1)


~記録~

通算成績:927勝944敗22休(140場所) →通算敗北数1位

幕内成績:697勝773敗15休(99場所)

幕内出場回数:1,470回

幕内初優勝 史上最年長(平成24年夏場所 37歳8カ月)

幕内勝ち越し 史上最年長(平成27年夏場所 40歳8カ月10日)

三賞受賞 史上最年長(平成26年九州場所 40歳2カ月)


~家族~

妻、長女、長男

実弟・ロブサンドルジ(31)は高島部屋の元幕下・不動山

養父・太田武雄(68)は元大関・旭國で、2代大島

義弟・太田智雄(36、2代大島の長男)は元三段目・旭萌天。同じく義弟・太田国宏(35、2代大島の次男)は元幕下・旭照天

義弟のダグダンドルジ・ニャマスレン(33)は藤島部屋の現役十両力士・翔天狼(実妹の夫)