平成の名脇役、逝く・・・ | Kobakenの「努力は必ず報われる!」

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この世で最も美しいものは、無意識の親切(by Kobaken)

週末、仕事を終えた私のもとに、訃報が届いた。


元大関・貴ノ浪の音羽山親方 死去


現役時代から心臓に持病のあった音羽山親方が急性心不全のため、43歳でこの世を去った。私は国技館前で引退後の貴ノ浪からサインをいただいたことがあるだけに、大きなショックを受けた。私が共働きの両親ではなく祖父母に育てられていた幼少期、相撲を見始めた頃に、土俵上で魅せてくれた力士のひとりでもある。審判委員に抜擢され、今後の活躍が期待された矢先の死だった。



音羽山親方。本名を浪岡貞博(なみおか ただひろ  公式プロフィールやパスポートに登録された本名は「さだひろ」だが、正確には「ただひろ」。周囲から読み間違えられるため、「さだひろ」で登録)といい、昭和46年10月27日、青森県三沢市で誕生した。中学時代、当時の藤島親方(1950-2005、元大関・貴ノ花)の勧誘を受け、中学卒業と同時に藤島部屋に入門し、昭和62年春場所で初土俵を踏んだ。同期生は全員引退しているが、協会に残っているのは、旭豊(1968-、大島、元小結、現・立浪親方)と小城錦(1971-、出羽海、元小結、現・中立親方)、そして北桜(1971-、北の湖、元前頭9、現・式秀親方)の3人である。また、後述の相撲ブームの立役者である同部屋の若貴兄弟より1年早い初土俵だった。


藤島親方は背の高い浪岡のバネのように歩く姿に惚れ込み、「こいつは将来、横綱になる」と信じて誘い込んだ。そのためか、通常なら早いと思われる初土俵から所要4年での新十両(平成3年春場所、当時19歳)に対し、「遅い!」と叱責したという(関取昇進前に負け越しが少なかったが、大きく勝ち越すことも少なかったため、番付の上昇が遅かった。だが、着実に番付を上げてはいた)。新十両を機に、四股名を「貴ノ浪」と改めたのだが、この四股名は藤島夫人である藤田紀子(1947-)が考案。師匠の現役名「貴ノ花」と本名の「浪岡」を合わせたものである。新十両は技のデパート・舞の海(1968-、出羽海、元小結)、そして大関昇進後に天敵となる剣晃(1967-1998、高田川、元小結)らと同期だった。


十両を4場所で通過し、平成3年九州場所、弱冠20歳で新入幕。終生のライバルとして上位で争うことになる武蔵丸(1971-、武蔵川、第67代横綱、現・武蔵川親方)とは奇しくも同時入幕だった。新入幕で初日から7連勝し、9日目には早々と勝ち越しを決めるも、残りはすべて負けて8勝7敗という尻切れトンボになってしまった。だが、196センチ、160キロという恵まれた体を見た周囲は「未完の大器」と見なし始め、将来の横綱候補と目されるようになっていった。


平成4年は年間を通じて平幕中位に低迷していたが、二子山部屋移籍後(藤島親方が名跡変更)の平成5年夏場所で新三役(小結)に昇進し、その場所で敢闘賞を獲得した。もっと早くに三賞を受賞していても不思議ではなかったが、「将来の横綱候補とは思えない相撲内容」と酷評されたことで選考委員会で落選し続け、「だったら、向こうに『ぜひ三賞を受け取ってくれ』と言わせるような活躍をしてやる」と奮起したという。事実、土俵際に下がりながら勝つ相撲が多すぎたため、勝ち星は評価されても内容は評価されなかったのだ。三賞受賞回数が3回(敢闘賞3回)と少ないのは、そのためである。


平成6年初場所、同じ関脇だったライバル・武蔵丸とともに大関取り挑戦の場所を迎えた。本割で同部屋や親類同士は対戦しないという内規により、武蔵丸は横綱・大関陣総当たりだったが、貴ノ浪は同部屋の若ノ花(1971-、二子山、第66代横綱・若乃花)と貴ノ花(1972-、二子山、第65代横綱・貴乃花、現・貴乃花親方)が大関に在位していたため、自分より上の力士で対戦できるのが曙(1969-、東関、第64代横綱)しかおらず、武蔵丸よりもハイレベルな成績が要求された。貴ノ浪は曙を苦手としていたが、この場所では曙の突っ張りの威力を低下させるべく斜めに仕切るという奇策に出て、これが功を奏した。貴ノ浪の得意技である珍手「河津掛け」で曙を降し、最終的には13勝。武蔵丸と同時に大関昇進を決めたのだが、ダブル昇進は17年ぶり(昭和52年初場所後、若三杉・魁傑。魁傑は復帰)だった。伝達式の口上で用いた四字熟語は「勇往邁進」であった。


二子山部屋は当時、黄金期を迎えていた。平成7年には、横綱・貴乃花を筆頭に、大関に若乃花と貴ノ浪がおり、三役常連の力士の中に安芸乃島(1967-、元関脇、現・高田川親方)と貴闘力(1967-、元関脇)がいた。その他にも多数の関取を擁し、平成7年夏場所の番付の上で、二子山部屋の関取は11名を数えた。この世の春を謳歌していた二子山部屋において、貴ノ浪は若貴を中心とした空前の大相撲ブームの名脇役としての活躍を示した。特に、「打倒 二子山」に燃えるライバル・武蔵丸とは好勝負を展開し、武蔵丸が先に引退するまで、幕内での対戦回数は58回(史上1位。貴ノ浪の21勝37敗)を数えた。


大関昇進後も、長身を生かした規格外のスケールの相撲を見せ、懐の深い取り口にも定評があったが、一方で正攻法の取り口を身につけていなかったため、横綱昇進は厳しいという声もあった。1ケタの白星に終わる場所も多く、平成7年には低迷期も迎えたことがある。特に、新十両が同期の剣晃を苦手とし(幕内での対戦成績は9勝9敗の五分)、剣晃に黒星をつけられて優勝を逸したケースもあった。ところが、平成8年初場所は絶好調で、場所を終えて14勝1敗。部屋の横綱・貴乃花との同部屋優勝決定戦では、十八番とも言える得意技の河津掛けで勝利を収め、念願の初優勝を飾った。平成9年九州場所でも貴乃花との優勝決定戦を演じ、再度貴乃花を降して11場所ぶり2度目の優勝。これが最後の優勝となった。しかし、平成2ケタ年代に入ってからは再び低迷期を迎えた。


平成11年秋場所、途中で足を痛め、最初で最後の休場を経験。場所序盤での戦線離脱だったため、九州場所は4度目のカド番で迎えたが、6勝9敗と負け越し、35場所連続で務めた大関の座を明け渡す。翌平成12年初場所は6年ぶりとなる関脇の地位で迎えた。大関から陥落した関脇は、陥落した場所に限り、10勝以上の白星を挙げれば特例で大関に復帰できる。貴ノ浪は千秋楽に10勝目を挙げたが、これは昭和44年に現行の大関特例復帰の規定が発効してから、昭和51年名古屋場所の三重ノ海(1948-、出羽海、第57代横綱)以来24年ぶり2度目の快挙だった。取組後のインタビューでは、「この15日間は長かった」と、大関復帰を決めたことに対して涙を流していた。

春場所で大関に復帰したが、春、夏と大関で2場所連続負け越しを喫してしまい、名古屋場所では再度関脇に陥落。この場所は10勝どころか7勝8敗と負け越しとなり、自身2度目の大関復帰を成し遂げられなかったばかりでなく、翌場所の小結陥落も決定した。大関在位37場所。これは、当時は貴ノ花、北天佑(1960-2006、三保ヶ関)、小錦(1963-、高砂)に次ぐ歴代4位の記録だった(現在では魁皇(65場所)、千代大海(65場所)、琴欧洲(48場所)に抜かれて7位)。また、大関での通算勝利数353勝は当時の歴代3位(現在では魁皇、千代大海に抜かれて5位)であり、ライバル・武蔵丸と同数だった。しかし、武蔵丸は貴ノ浪が低迷し始めた平成11年に第67代横綱に推挙された。下半身が安定していて成績も安定していた武蔵丸と、規格外の取り口でひざを痛めがちだった貴ノ浪。両者の明暗が分かれる形となった。


21世紀に入ってすぐに、8年ぶりに平幕へ陥落。平幕上位で活躍し、「自分にしかできない、スケールの大きい相撲を取る」ことを心がけて魅せる相撲に徹し、大関時代にも劣らない人気を博した。平成14年九州場所5日目、ライバルである横綱・武蔵丸と対戦。武蔵丸はこの年、長期休場中だった貴乃花の穴を埋めるべく、人気が低迷する相撲界においてひとり横綱として活躍し、1年の半分に相当する3場所を制していた。一方、貴ノ浪は平幕で活躍。この取組では、波に乗る武蔵丸を、ライバルの貴ノ浪が降し、貴ノ浪は自身初となる金星を獲得した。上を目指していた若き日には苦手とする曙しか横綱の地位におらず、金星を獲得する余裕などなかった。新入幕から67場所目での初金星を獲得したこの場所を10勝で終え、大関昇進直前の平成6年初場所以来53場所ぶり3度目の敢闘賞を受賞。一方の武蔵丸は、この取組で手首を負傷し、翌日から休場。この場所から休場が続くなど、これが引退の引き金となった。これが最後の輝きで、平成15年には年6場所すべて負け越し、体力の衰えが顕著になり始めた。


平成16年、二子山親方が闘病に徹するため退職。代わって次男・貴乃花親方が部屋を継承。一代年寄のため、「貴乃花部屋」に変更となり、自身も貴乃花部屋所属となったばかりか、1年遅く初土俵を踏んだ1歳下の弟弟子が師匠となる珍事が生じた。また、3つの相撲部屋に所属した唯一の大関経験者となった(部屋の移転はなし)。かつてともに部屋を盛り上げた仲間たちは新世紀を迎えてから次々と引退しており、自身は貴乃花部屋唯一の関取として、平成16年春場所を迎える。番付は西前頭8枚目で、上位陣との対戦はなかったが、貴ノ浪の体力が落ちていることもあり、5勝止まりに。夏場所は東前頭13枚目まで後退したが、場所前に、かねてより悪かった心臓の不調で入院。症状は重篤で、相撲を続けることができなくなっていた。初日から2連敗を喫したところで引退を表明し、年寄「音羽山」を襲名。

大関陥落後在位25場所は小錦を抜き、当時の歴代1位だった(のちに出島、雅山が更新)。幕内出場回数1,118回は当時7位で、貴ノ浪はそれに触れ、「長く取っているだけ。でも、勝たないと長く取れない。いいことじゃないですか」と笑い飛ばしていたが、翌日の引退会見になると表情が一変。「どこまで相撲を取れるか確かめるために出場した。やれるだけのことはやったから、悲しくはない。でも、なぜか涙が出るんですよ」と会見で述べ、前日との変わりように報道陣は驚いていた。「正攻法の取り口だったら間違いなく横綱になっていた」という評価も多く、記録より記憶に残る力士だった。


土俵を離れれば、明るく気さくな人柄で人気を博していた。二子山部屋の関取はほとんどが寡黙で、特に安芸乃島は殊勲インタビューでも「覚えていない」とほとんど口を開かず、マスコミの間では不人気だった(安芸乃島は引退後、「覚えていないわけがない。俺がしゃべったら、負けた上位陣に失礼」と、インタビュールームでの寡黙の理由を明かしたことがある)。しかし、貴ノ浪は物怖じしない性格で、対照的に無口だった兄弟子の安芸乃島をあきれさせたばかりか、座薬を師匠夫人の前で注入しようとして叱責されたこともある。自称「日本相撲協会のスポークスマン」「影の広報部長」で、勝っても負けても自身の取組について面白おかしく回答したり、力士の裏話を披露したりするなど、報道関係者からの人気を得ていた。さらに、某誌には本人のコーナーがあったのだが、それが人生相談のコーナーで、一般の読者からの悩み相談にユーモアを交えて答えたため、投稿も多くなった。頭の回転も速くて正義感もたっぷり。平成8年初場所、自身の初優勝となった場所では、貴闘力―土佐ノ海戦で審判委員よりも早く手を挙げ、物言いをつけた(結果は行司差し違えで兄弟子・貴闘力の勝利。控えの力士は物言いをつける権利があっても、行司と審判委員との協議には参加できない。のちに現在の横綱・白鵬も控えから物言いをつけたことがある)。また、立ち合いで遅れる対戦相手に対しては、土俵上でありながらもマイクが拾えるほど「ちゃんと合わせろ」と叱責していた。

一方で涙もろく、終生のライバル・武蔵丸が平成15年九州場所、自身より半年早く引退した際には、人目をはばからず号泣。また、平成17年初場所後に行われた自身の断髪式では、口腔底癌のため病床の身であった師匠・二子山親方が病院を抜け出し、無理をして参列。「皆様、しばらくお待ちください。ただいま、二子山親方が会場に向かっております。到着まで、もうしばらくお待ちください」のアナウンスが流れると、会場は静寂に包まれた。時間に遅れて登場した二子山親方の顔は抗癌剤の副作用でむくんでおり、整った顔立ちで「角界のプリンス」と呼ばれていた現役時代とは程遠く、足元もおぼつかず、土俵下に控える呼出の肩を借りなければ土俵に上がれなかった。それでも、貴ノ浪の現役時代、息子である若貴兄弟よりも貴ノ浪の話をする際のほうが笑顔になるなど、愛弟子として慕っていたこともあり、なんとか弟子のまげにハサミを入れたいという思いが強かったのだ。余命いくばくもない尊敬する師匠が近づくと、貴ノ浪の目からとめどなく涙が流れ落ちた。師匠はそれから4カ月後、55歳の若さで世を去った。


引退後は貴乃花部屋に付き、多忙な貴乃花親方に代わって力士の稽古指導を担当する機会が多かった。34歳の若手親方として将来を嘱望されていたが、平成18年1月には心房細動、敗血症、肺炎を併発して緊急入院。一時は心肺停止に陥るなど生命の危機にもさらされたが、夏場所から職務に復帰した。特に心臓に持病があり、引退後は職務の一方で闘病もしていたという。平成24年の役員改選で広報部へ異動となり、現役時代とは違って影ではなく表立っての広報部員としての活躍も期待されたが、平成26年夏場所は胃潰瘍のため休場。のちに、胃癌の手術のための休場であったことが判明した。


そして、平成27年6月20日(昨日)、大阪市内のホテルで倒れているところを発見され、死亡が確認された。広報部でも手腕を発揮し、審判委員としても土俵下で目を光らせ、現役時代同様に物言いをつけるなどの活躍が期待されていた矢先の訃報に、関係者はショックを受けた。平成14年に10年の交際期間を経て結婚した夫人、その2年後に生まれた小学5年生の長女の様子も気がかりである。葬儀は夫人の故郷である名古屋市内で、22日に行われる。



大関として優勝2回。高い評価はされていなくとも、常識外れの相撲内容で魅了してくれたことは、人々の記憶に残り続けるはず。合掌