フォーカスの車検が終了したのでフィエスタを返しに行く。ガソリン(セルフでハイオク179円)は100kmで7.4L。フォーカスより遙かに燃費がいい。現金で21万円ちょっと払うと、もうお金がなくなった。


本来は明日から大阪に行く予定だっだが、先週も行ったし再来週も行くので、出費がかさむこともあって断念した。会社から交通費や出張費が出ない身分は辛い。


さて、昨日に続いて、ロベール・ブレッソンの映画。2本目は「バルタザールどこへ行く」(1964年)だ。映画の分野では私など足元にも及ばない案の定変化さんが、ブレッソンは退屈とおっしゃっていたが、私も途中で2度ほど寝てDVDを巻き戻した。ベルイマンだって「分からん、つまらん」と評したとか。付録に映画評論家のドナルド・リッチーのインタビューが収録されていて、「あくびをしたり居眠りしたり、観客がいろんな反応をする。それもブレッソンの特徴だ」と語っていたが、よく言うよ。でも、当たってるか。全編目が離せない類の映画では決してないのは事実である。



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物語は、ピレネー地方の小さな村に住む少女と生まれたばかりのロバが登場してスタートする。少女とロバの物語ではなく、さまざまな登場人物に翻弄される少女と、さまざまな人たちの手に渡りながら生きるロバの運命は、別々の視点が語られる形だ。



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幼なじみの青年への愛情が理由もなく薄れ(写真はそのシーンだ)、一方で、不良青年の誘惑に屈服してしまう思春期の少女マリーを演じたアンヌ・ヴィアゼムスキーは、この後、ジャン=リュック・ゴダールの映画に主演し、同監督と結婚する。ゴダールがこの映画を絶賛するのはそれもあるか。


ブレッソンは俳優たちの演技にまったく興味がないようにも見える。「ただ立っていただけ」とマリー役のヴィアゼムスキーが証言するとおり、無名俳優たちが演技的個性を排したような、あるがままの姿で登場するのが特徴だ。俳優の演技に引き付けられないから、それを期待する人たちは画面になかなか集中できないのかもしれない。が、それでもやはりブレッソンの構築する世界には言葉で言い表せない魅力がある。



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ロバのバルタザールの頭を花で飾るマリー。これを見ていた不良青年たちは嫉妬に駆られてロバに暴行を加える。



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映画には悪や吝嗇、自尊心などの化身のような登場人物が出てきて、マリーの人生的破滅にも影響を及ぼすののだが、それを優しく、かつ厳しく冷静に、いかにも人生を達観したような眼差しで見つめるロバの表情(無表情)のアップが随所に挿入される。人間たちにこき使われながら、彼らの悪徳を見続け、静かに息を引き取るこのロバを、人間たちの罪を贖うキリストに見立てる見方もあるようだ。ただ、ブレッソン自身は「私は象徴を避けている」と断言している。


もっとも役者的なのがロバだ、というのがこの映画のユニークな点でもある。