先ほど、自宅の電話が鳴り、出てみると広島の呉市に住むKさんからで、年始の挨拶の電話であった。彼女は私が呉服屋に勤めていた23~24歳のときに外交員をしていた女性である。当時の生活ぶりを書いたWeb小説 (こちら) をご覧になった方はご存じと思うが、この呉服屋生活は私の社会人としてのスタートを飾る貴重な経験であった。このときの女性外交員(当時はレディさんと呼ばれていた)たちとは、とっくの昔に音信不通になっている。そもそも、大半はすでに亡くなっているのである。唯一、Kさんだけは電話や年賀状のやりとりが続いているのである。当時はレディさんたちの中でも36~37歳と若く下っ端の新人であったKさんも、今では60代。先頃まで大病を患い4カ月も入院していたそうで、にもかかわらずこうして電話をいただき、「今年はぜひ会いましょう」と言ってくれるのは実に有り難い限りである。私も今年は必ず呉まで出向いてお会いすることを約束して電話を切ったところである。


今年届いた年賀状には小学校の同級生をはじめ、旧い友人もいて、年始のやりとりだけとはいえ、1年に1度、互いの消息を確認できるのは素晴らしいことだと思う。しかし、Kさんの場合はこうした級友たちとはまた異なる関係であり、やりとりが続いてることが不思議である。さっき電話をもらっただけで、社会人になりたてほやほやの頃を懐かしく思い出してしまった。当時の出来事が甦ったついでに、「あの頃はどんな音楽を聴いていたか」と振り返ってみると、6畳一間のアパートの小さなラジカセで流していたのは大学時代から聴いていた曲ばかり。初めての給料をやりくりしながらの一人暮らしと大学時代とは打って変わった忙しい生活で音楽を聴く時間が激減し、この時期の私は1枚のレコードも買っていなかったようである。


当時の私がよく聴いていたのは、大学時代に買ったレコードをダビングしたテープばかりである。ジャズも聴いてはいたのだが、どちらかというと当時流行っていた8ビート、16ビートサウンドのほうが思い出深い。フュージョンという言葉はまだなく、クロスオーバーと呼ばれていたりした時代である。


シューギー・ワナ・ブギー   ブルーモントルー   テキーラ・モッキンバード


大学時代に聴いた曲やアルバムの中には、CDで買い直したりして今でも聴くものがある。その一部を並べてみた。一番左は、デヴィッド・マシューズの「Shoogie Wanna Boogie」。この頃はドン・セベスキー、デオダード、ボブ・ジェームスなどのアレンジャーが活躍した時期である。マシューズのこのアルバムはその後のものと異なり、ディスコやソウルのテイストの強い選曲とアレンジで、私のお気に入りである。


大学時代に最も聴いたレコードは、ハービー・ハンコックの「ヘッド・ハンターズ」、ブレッカー・ブラザースの「ヘビーメタル・ビーバップ」、ボブ・ジェームスの「ヘッズ」など。このあたりはかなり繰り返し聴いたように思う。写真の2番目のアルバム「ブルー・モントルー」は、そのブレッカーブラザーズがマイク・マイニエリなどと組んだ、1978年のモントルー・ジャズフェスのライブだ。

3枚目はラムゼイ・ルイスの「テキーラ・モッキンバード」。これも大学時代に好んで聴いたアルバムだ。ラムゼイ・ルイスとの出会いは19歳のときにFMの番組で流れた「SOUND OF CHRISTMAS」(1960年)のトリオ演奏である。ジャジーでファンキーなクリスマスソングを演奏したこのときのラムゼイ・ルイスは、その後の私の音楽活動にも多大な影響を与えている。呉服屋を辞めて上京し、バイト先にいた髪の長いロッカーたちと出会った私は、彼らと初めてのバンドを結成したのである。ブラック・サバスなどの曲をガンガンやっている連中と、ろくにコードも弾けない私とで一体何ができるのか。その答えが、「ジ・イン・クラウド」などラムゼイ・ルイスを原点としたファンキージャズロックだったのである。


ジャズに憧れつつもまともなジャズはできないこのバンド、私の唯一のレギュラーバンド活動であったが、なんと10年も続いたんである。それからはジャズの道を歩むことになるわけだが、最近、いろいろ気持ちの変化が生じている。ということで、今年は再びジャズ以外の世界に戻ろうと考えております。おいおい。