次兄は正月前に、船乗りの仕事に戻った。次兄は、石油タンカーに乗っていた。
一か月ほどの休暇が終わり、また、日本と中東とを往復する船乗り仕事に戻ったのだ。
次兄も、新聞配達のアルバイトを母から許してもらえなかったとき、高校進学を諦め、
その代わり、1年間の船員学校に行って、船乗り、つまり船員さんにになった。
高校には行けない、だが、中卒でそのまま就職しても、大した仕事には付けない。
だから、考えて考えて、船乗り、船員になろうと思ったんだ、と、次兄は言った。
一年間船員学校に通えば船員さんになれる。
船員になれば、一般の陸上の仕事の人より、倍近い給料がもらえる。
母ちゃんへの仕送りも十分にできる。
だから、俺は母ちゃんに、一年辛抱してくれ、と頼んだんだ。
私は、母と次兄のそんなやり取りは、まったく知らなかった・・・
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私は、
昭和41年3月に厳木中学校を卒業した次兄を、
その4月に、唐津市大島の船員学校まで、
それはつまり、船員学校の寮に入るということだったのだが、
母と二人で、送って行ったことを覚えている。
次兄が家を出て、これからどうなっていくのだろうか、と不安だったが、
「シンジ、母ちゃんを頼むぞ」と、次兄から言われたので、
もう、兄ちゃんは家にいないのだから、
これから自分がしっかりしないといけないのだ、と思った。
私は次兄がいなくなった寂しさは、母の方が強かっただろうと思う。
地図の、唐津海上技術学校というのが、昔の船員学校と思われます。
今は3年制の高校になっているようです。日本人の船員さんは少なくなりましたからね。