漂流の思い出2  20231003 | かずとのたびのブログ いい出会いと記憶 田舎爺の人生

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「画像はほとんど拝借です」
爺の故郷は山の裾 トンボも蝶チョも飛んでいた
過ぎ来し方を振り返り 明るく生きて参ります
孫の成長楽しみに いつか旅立つその日まで

次兄は正月前に、船乗りの仕事に戻った。次兄は、石油タンカーに乗っていた。

一か月ほどの休暇が終わり、また、日本と中東とを往復する船乗り仕事に戻ったのだ。

 

次兄も、新聞配達のアルバイトを母から許してもらえなかったとき、高校進学を諦め、

その代わり、1年間の船員学校に行って、船乗り、つまり船員さんにになった。

 

高校には行けない、だが、中卒でそのまま就職しても、大した仕事には付けない。

だから、考えて考えて、船乗り、船員になろうと思ったんだ、と、次兄は言った。

 

 一年間船員学校に通えば船員さんになれる。

 船員になれば、一般の陸上の仕事の人より、倍近い給料がもらえる。

 

 母ちゃんへの仕送りも十分にできる。

 だから、俺は母ちゃんに、一年辛抱してくれ、と頼んだんだ。

 

私は、母と次兄のそんなやり取りは、まったく知らなかった・・・

 

*******

 

私は、

昭和41年3月に厳木中学校を卒業した次兄を、

その4月に、唐津市大島の船員学校まで、

それはつまり、船員学校の寮に入るということだったのだが、

母と二人で、送って行ったことを覚えている。

 

次兄が家を出て、これからどうなっていくのだろうか、と不安だったが、

「シンジ、母ちゃんを頼むぞ」と、次兄から言われたので、

もう、兄ちゃんは家にいないのだから、

これから自分がしっかりしないといけないのだ、と思った。

 

私は次兄がいなくなった寂しさは、母の方が強かっただろうと思う。

 

地図の、唐津海上技術学校というのが、昔の船員学校と思われます。

今は3年制の高校になっているようです。日本人の船員さんは少なくなりましたからね。